夏は読書ができるといいな
ここに来て、読書熱が上がってきている。
前からふつふつと再燃の感はあったけれど、ブーストしたのは、いしいしんじさんの『書こうとしない「かく」教室』を読んだこと。とても思い入れのある作家さんの、ここまでの道のりの本だから、作品を熱心に読んでいたかつての自分をまた思い出すことができたのだ。不思議な、震えるほどの読書体験だった。
ぜんぜん実感できないけれど、一応夏休みまで一か月を切ったらしい。
少しだけ落ち着く夏休みになれば時間を見つけやすくなる。せっかく生活圏内に図書館があるのだ、この夏は頻繁に図書館に行けたらいいなと考えている。
ちなみに「図書館」は、もちろんいそいそと通っていた時期はあったけれど、今回、小沢健二さんの物販で「ポロシャツのボタンを一番上まで留めて図書館に行きたい気分」という文を読んで、あ、いいなぁと思ったのだ。歌詞でいうところの「なんて単純で、馬鹿な俺」。
しかし、なんだろう、読書を求めているということは。
やはり一番に思いつくのは、少し現実から離れたいのかもしれない。
実際、一日15分の読書にストレス解消効果があると言われている。
現実逃避であろうがなんだろうが、自分のためになるのならば迷う必要はないと思う。
そんなことを思いはじめた数日前、かつて愛読していて今は追えなくなっている「新潮クレスト・ブックス」をググってみた。
するとしっかり出版され続けていて、心惹かれる本がすぐにたくさん見つかった。再読したいものも含めて。
『世界の果てのビートルズ』、『ウォーターランド』、『ペンギンの憂鬱』、『シェル・コレクター』、『素数の音楽』、『通訳ダニエル・シュタイン』、『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』など、本当におもしろかった。
そして、満点の誰得なわけだが、こうやって自分のお気に入りを羅列するべく打鍵しているときのなんと楽しいことか!
小説だけでない。エッセイも読みたいし、力もつけなければならないから仕事に直結する本も。なんなら新聞もまた熱心に読みたい。
でも、痛感している不安も同時に感じるわけで。
それは、長時間の読書に耐えうる体力があるのか、という話。大変情けないが。
今も週末など、時間が取れて「本でも読むかー」となって開くも、わりといつもすぐに睡魔に襲われてしまう。
もうそれは抗いようのないレベルで。
ふだんの睡眠の質が悪かったり、単純に睡眠時間が足りていなかったり、または回復力が落ちているのかだと思うが、まぁそれはまた別の話。
体力には、「集中力」も含む。つまり、スマホを筆頭に、カジュアルな誘惑に負けずにひたすら本の世界に没頭できる集中力も、間違いなく落ちてしまっている。「スマホ依存」、まったく他人事ではない話なのだ。
液晶画面を注視し続けていたら目が疲れ、まぶたが重くなる。
察するに、読書に集中したいならば、眼精疲労の巣窟であるスマホは最も遠ざけるべき対象なのかもしれない。
遠ざけ方ならばある程度アイデアはあるので、きちんと読書に向き合える環境を作ろうと思う。
ところで今日は、この後実家に帰る。今は、途中下車して街の中。
さっき本屋に寄った。甥っ子(4か月)に、絵本を一冊買った。『たぷの里』である。母つまり甥っ子からしたらおばあちゃんから「絵本買ってあげて」と、ママを一切経由しないリクエストを拝命した次第。
でも、絵本選びは前からわりと好きだから楽しかった。
もちろん、買いはしなかったが、自分用の本も物色する。
上でつらつら書いたような願望があるからか、最近、またさらに本屋が好きかもしれない。
目立つところに並べられている本たちを見ると、時代感がよく分かる。「あ、たしかに、今ってこーゆー時代だなぁ」と。
気を抜いているつもりもないけれど、漫然と日々生きているのだろうなぁ自分、と思った。または、目の前のことにいっぱいいっぱいになってしまっている。
世のリアルタイムと接地している仕事だから、常に「今の時代感」はつかめていないといけないと思う。
漫然と生きていて、世の事象を素通りさせてしまうことは「自分の後退」なのだ。
……と、あんまり厳しく自分を責めるようなことを言ってやってはいけないな。
とにかく、したいことがきちんと頭にあることは良いことだ。
自分の人生である。自分を喜ばせてあげること。すべてはそこから始まる。