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先生、読書がしたいです

一月も半ばに差しかかった今、思い出したことがある。

そういえば、初詣に行っていなかった。

あなたは行きました?

もしかしてこの質問自体が遅過ぎましたか。

というくらいに、ぼくは初詣というものに鈍感で、毎年なんとなく成人マンガ家で妻のnikoさん(@nikonikopun17)が「商売繁盛」の祈願(?)の付き添いついでにお参りするくらいだった。

でも今年はそのnikoさんも自身の友人と初詣を済ませていたので、ぼく自身の初詣は完全にタイミングを逸してしまった。

特にそれでアタフタするというわけではないんだけど、強いて言うなら文章表現が豊かになる「ユーモアの神様」のところにお参りに行きたい。

神様、おねがいです。どうかぼくの「なんのこっちゃ日記」にいい感じのユーモアをテキトーに付与してください。


noteで記事を書いている方やライターとしてお仕事をされている方は、やはりたくさんの文章に触れることが大切なのだろう。それだけたくさんの本やマンガを読んでいる人が多い印象だ。

素人のぼくが記事をながめていても、「上手な文章を書いている人だなー」と思うと、やっぱり読書を趣味となさっている。
しかもまたその読書量がすごい。それがふつうなのかな?1ヶ月に何冊も読まれている方が大半なのだ。


告白すると、ぼくは読書が大いに苦手。

1年を通しても年間で数冊しか読まないと思う。しかもその大半がビジネス書。文章表現の教養となりそうな小説とかエッセイなどの本は滅多に読まない。
最後に読んだ小説は何年前だろう。当然、どんな小説だったかも記憶がない。

もっとも、そんなだから小説でも限られた作家さんの本しか読んでいないので、多分「伊坂幸太郎」さんの作品かな。
小説を読まないのにはなんとなく理由があって、ぼくは小説などで小説家さんの卓越した文章を読むとその、表現力の豊かさに嫉妬してしまうのだ。

繰り返しとなるが、念のために言っておくと、ぼくはnoteをで記事を書いてはいるものの「ズブのど素人」だ。嫉妬とか、悔しいとか何をわけのわからないことを言っているんだとお思いだろうけど、どんなわけか悔しくなってしまうのである。

なんでこんな表現ができるんだろう?

どこからこんな言葉が思いつくんだろう?

天才だなこの人・・・

とかこんなことばかりを考えて読んでしまうので、物語が頭に入ってこなかったり、途中で読むのを諦めてしまったりもする。

ぼくの中で伊坂幸太郎さんの文章はそういうのも超越している。悔しいとか考えるよりも前に頭にスーッと入り込んできてしまうので、常にぼくの完敗なのだ。

いつから勝ち負けの話になったんだっけ?

それから本をあまり読まない理由の一つに「読書速度がすこぶる遅い」というのがある。

マンガも同じ。

1冊のマンガを読むのに30分以上かけることもザラにある。セリフ量が多い「ワンピース」や、最近は読まなくなっちゃったけど「名探偵コナン」なんかは1時間くらいかけて読んでるんじゃないかな。

いつも妻のnikoさんには「なんでそんなに時間がかかるの?」と呆れてしまっているようだ。「なんで?」と言われてもかかるものはかかるのでどうしようもないんだけど、ちょっとその理由を考えてみようじゃないか。

まずは、純粋に文字を目で追うのが遅いということがあるだろう。目の動かし方に問題があるのかもしれない。でも、そうじゃないとぼくのポンコツ頭には入ってこないのだ。

ただ、いかんせんぼくの頭の中のもう一つの問題である「壊滅的な記憶力」のおかげで、ただ読んだだけでは次の日にはスーッとその内容が抜けて行ってしまうのだが・・・。

そのため、最近は特にビジネス書を読むような時は気になった都度、スマホにメモを取りながら読んでいる。必然的に読書速度の遅延にも貢献しているよね。

目の動かし方以外の原因として考えられるのは、「熟読しすぎ」ということだろうか。マンガであっても同じ。セリフの一つ一つを読み込んでいくので、どうしても時間がかかってしまうのだ。

これもnikoさんによると、マンガを読む時って文章とかじゃなく「コマを見ていく」んだってね?ぼくにはその意味が理解できないんだけど、どうやらマンガは「読む」というよりも「見る」ものなんだそうだ。

余談だけど、nikoさんはどうやら「画面記憶」という特殊能力を備えているらしい。

なにそれ血継限界?血鬼術?それとも天与呪縛?

なんにせよ凡人のぼくには理解不能。初詣に行って神様にお願いすれば、ぼくにもその能力を付加していただけないだろうか。

とにかくnikoさんはその画面記憶とやらで見たものを見たまんま頭の中に記憶できるらしい。ただ本人曰く「記憶できる対象は限られる」とのこと。

ますます理解不能。


ぼくは考えた。

なぜぼくはそんなにも文章やセリフを熟読してしまうのか?

小説の気になった文章表現やマンガの印象的なセリフなど、なんなら何回もページを戻っては繰り返し読んでいる。

このキャラクターはなんでこの言葉をこの場面で発したのか?

なんでこの文章になったのか?

どういう意図でこの文章表現をしているのか?

など書き手の心理を考えてしまう。それから、きっとぼくはすぐに忘れてしまうから、印象に残った文章を少しでも頭に留めておきたいと思っているのかもしれない。無意識に。

そういう文章表現は、きっとぼくのnoteの記事にも影響している。これも無意識。

ぼくは読んだ文章も忘れてしまっているので意図せずパクっていることもあるかもしれないが、大概の文章やセリフは断片的にしか頭に残っていないからその心配もないだろう。

ただ、セリフの言い回しだったり、文章の構成などは本当に無意識に影響されているなぁと感じることはある。

ぼくがお気に入りの文章を書く人の記事を読んでいると、どうしてもその人の表現に寄ってしまう。でもそれはきっとぼくの「好きだ」と感じる感性がそうさせるのだろう。


noteに記事を書くようになってから、「スキ」をもらったりフォローしてもらった人など、本当にいろんな人の文章に接するようになった。
文章表現は絵と同じように芸術作品の一種。多種多様でコピペの文章でない限りは誰一人として同じ文章にはならない。

そんな、数えきれないたくさんの人が書いた文章を、小説やマンガを読書するように熟読しながら、ぼく自身の文章もきっと変化していることだろう。

ぼくにはわからないような文章の変化も、読んでくれているあなたに伝わっていたらおもしろいな。


じゃあ、またね。


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