その時間、自分に使う?他人に使う?
もうね…ほんと恥ずかしいからやめてほしい。昨日の記事に書いた「寒さが和らいで」っていうの、はフラグなのかな。翌朝、カーテンを開けたら周りの屋根にうっすら雪が積もっていた。
前にもそんなことがあった気がするんだけど…わかったよ!もう言わない。寒さが和らいでとか、春が近づくとかは禁句なんだな。
冒頭の入りネタが減るけれど仕方がない。
昨日、ダンススクールから帰ってきたばかりでいつもよりテンション高めの中学一年生のぼくの娘が、めずらしくぼくの食事時間にテーブルに着いていた。
妻のnikoさんもその場にいたから、ぼくはおもむろに家族会議用に買ってあるホワイトボードを持ちだした。
このホワイトボード、今の家に引っ越してきた時に買った物で、簡易的だけどテーブルに置くのにちょうどいいサイズでぼくは気に入っている。
ただ引っ越してきてから約半年の間に登場回数は3回目くらい。今年は週に一度くらい、お題はフリーで家族ミーティングでもやりたいなと思いながらも、いつも「すとぷり」の配信動画に夢中の娘に気をつかってお父さんは言い出せずにいる。
意を決してそのホワイトボードを持ってきたのにはわけがある。それはその時にも「すとぷり」の配信を見ていた娘に伝えたいことがあったから。
ぼくは娘が小さな頃から絶えず言ってきたことがある。
「お父さんや自分以外の他の人が言うことは「正しいこと」じゃない。ただの意見だよ。だから何でも最後は自分の判断で決めるんだよ」
だけどやっぱりぼくも父だ。酒を飲むと若干うざ目に娘にうんちくを垂れたくなる。ぼく自身が何かの実績があるような人間なら説得力があるのかもしれないけれど、そんなものは持ち合わせちゃいないのでやっぱりただの「うんちく」止まり。
それはぼく自身が一番わかっていることなので、さっきの教えを娘には口すっぱく言ってある。
それでも今回、お蔵入り寸前だったホワイトボードを目の前にして、
「いつものお父さんの意見は別に聞いても聞かなくてもどっちでもいい。だけどこれだけがお父さんの美春への願いだから聞いてほしい」
と言ってプレゼンした。ポンコツつのぼくは図解もかなり苦手なんだけど、一生懸命に少しでもわかるようにと書いた。その内容を文章で書いてみる。
自分に使う時間 > 他人に使う時間 → 自分の人生
自分に使う時間 < 他人に使う時間 → 他人の人生
娘は、パソコンを使ってデジタルのイラストを描くことにハマっている。書いているのは大好きな「すとぷり」のキャラが多い。それは、自分でイラストが上手になるために書いているから自分のために使った時間。
他にも、ダンススクールも運動や技術向上のために自分から進んで行っているから、それもやっぱり自分のために使った時間だと思う。
自分の好奇心から「向上したい」と思えることに使った時間は全部、自分のために使った時間だ。
じゃあ、自分のために使った時間ではないのは?
娘で言えば「すとぷり」の配信動画を見ている時。
その時間というのはすとぷりへの応援にもなるし、自分の心を癒したりすることにも効果的な時間かもしれない。だけど、イラストを描いたりダンスを踊ったり、何か自分のために向上することがあるわけじゃないから自分のために使った時間とは言えない。すとぷりのため、他人のために使った時間だ。
ゲームはどうだろう?
ゲームはe-sportsのようにそれ自体を極めようとするなら、それは自分のための時間かな。だけどただの「暇つぶし」やゲームをただひたすらにダラダラやるだけならば自分のためとは言えない。ゲーム制作者に捧げた他人の時間だと言えると思う。
何が自分のための時間で、何が他人のための時間かは自分の時間への向き合い方によって変わる。
だけど、もしも何も考えずに娯楽を感じるだけの時間だとしたら、それは自分の時間ではなくそれを提供している他人のために使った時間。
その他人に使う時間が自分に使った時間が多かったとしたら、それは他人のために生きている人生だ。
逆に、
自分のために使った時間が他人のために使った時間よりも多ければ、それは自分のために生きている人生だ。
自分のために使う時間、他人のために使う時間。それはどちらもあっていい。自分が好きな誰かのことを応援することは素晴らしいし、それが自分の成長につながる場合だってある。
けれど、何も考えずただ単に他人に捧げてしまう時間というのは人生においては成長につながらない。
テレビやYoutubeを流してただひたすらボーッと見る。何の目的もなくTwitterのタイムラインをひたすら眺める。
こういう、他人に奪われている時間というのは不思議とあっという間に過ぎてしまうよね。それで後になって「ああこんなにも時間を使っちゃった」と思う。
娘には、こんな時間の使い方は極力減らしてほしいと思う。なぜならぼく自身がそんな人生を生きてきてしまっていたから。
何を学ぶ努力もせず、娯楽のためのばかりに時間を使ってしまった。
きっと自分のために時間を使っていれば、自然と学びが生まれるはず。探究心とか向上心、それに加えて熱意。
それらがきっと自分を成長させてくれる。学校で勉強の時間を与えられるまでもなく、自分の時間を自分自身の裁量でうまく使えるようになる。
娘にはそういう自由な生き方をしてほしい。
若い今のうちから自分の人生を生きる練習をしてくれることを願う。
お父さんのぼくがどれだけウンチクを垂れようが、そんなことは忘れてしまっても構わない。本当は自分の人生に後悔だけはしないようにしてくれれば、それだけでいいんだ。
じゃあ、またね。
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