『スキ』というより、スキあらばnoteを書いている。
人は、費やした時間によって、なにか成果を出さなければムダな時間だと思っていた。
人生の大半の時間をムダに過ごしてしまったと思っていたんだけど、noteを書くようになってからというもの、人生における時間の概念が少し変わった気がする。
子供の時から学生まではゲームが大好きで、そこに人生の時間の大半を注ぎ込んできた。楽しいからとか、面白いからとか、そういう欲求を満たすためではなかった気がする。
ウチにはテレビが一台しかなかったから、小学生だった当時は「テレビを独占してしまうから」という理由でテレビゲームは買ってもらえなかった。
ところが、ぼくが小学4年生くらいの時に今では化石と化した「ゲームボーイ」というモノクロの携帯ゲーム機が発売され、それはテレビを使わないから買ってもらってひたすらゲームの世界にのめり込んでいった。
中学生の時には、別のところに引っ越してテレビを使っていても怒られないようになったから、当時溜め込んでいたお年玉を使って最新機種となる「プレイステーション」を手に入れ、さらに自分の時間をゲームに費やすことになる。
それからは社会人になるまでずっと、休日になるとゲームざんまい。でもそれはゲームを攻略したいとか、明確な目的があったわけでもなく、ただ仕事などのストレス発散と暇な時間を消化するための手段だった。
ストレス発散や暇つぶしだけで、他の誰かのためになったり誰かのために何かを生み出したりするわけでもない時間の使い方には何も意味がないと思っていた。
自分は人生でなんの価値も生み出せていないダメな人間だと、自分自身にレッテルを貼っていたのだ。
今でも、特に誰かのためになるようなことや、誰かの求める何かを生み出すようなことができていない自分には嫌気が差してしまう時がある。
でもそれって、自分がそう思っているだけで、他人はぼくのことをなんとも思ってはいないし、まさか「あいつは何も価値を生み出せていない残念なヤツだ」なんて思うわけがないのだ。
「自分には価値がない」なんていうのは自分の妄想であり、ある意味で思い上がりなんだと思う。逆の発想で、みんな自分には何も期待しちゃいないし、何もしてほしいなんて微塵も思っちゃいないだろう。
それをぼく自身が「自分には誰かのために価値を提供できるはずだ」というのは単に勘違いしているだけの思い上がり以外の何物でもない。
だからというわけじゃないが、そんなに自分自身で背負い込む必要なんてないはずなのだ。
変に期待しているのは自分だけ。
だから自分が何かに費やす時間には「意味がない」と思ってしまう。
だけどnoteを書くようになってほぼ毎日更新を続けていると、そんな自分が生み出している言葉は、誰かに向けた言葉というよりも自分が自分のためになる言葉のような気がしてきた。
もちろん、今日の記事だって読んでくれているあなたには本当に感謝している。こんなぼくのただの思考を吐き出すような文章でも、読んでくれている人がいるというのは驚きでもあるけれど、素直ににうれしいと思う。
いろんな人のnoteの記事を見ていると文章表現がすごく秀逸で、自分の文章が幼稚極まりないなと思ってしまうことは多々ある。
でも、そう思っていることも自分だけで、実際には読んでくれているあなたがそんなことを思っているわけではない。…たぶん…きっと…いやそうであってくれ。
最近はnoteを書くタイミングも自分の中で決まりつつある。
最初に手を付けるのは仕事からの帰宅途中で乗る地下鉄の中だ。地下鉄に乗っている時間はおよそ20分強。ぼくの書くスピードではまだ到底書き切れるような時間ではない。
でも、それより何より「書き始める」という事実がぼくには必要なのだ。
noteを書き始めた手前、途中で終わらせておくのがもったいない気がしてしまう。だから家に帰ってからも「続き」を書きたくなる自分の性質を利用している。
義務の類はぼくの一番苦手としている分野なので、それよりも「なんか書き切らないと気持ち悪い」という感情を呼び起こすのが自分にはあっている。
たとえ、もしも記事が生まれなかったとしても自分がそこに費やした時間は自分にとって意味がある。自分が「書こう」と思って始めたそのnoteは、誰かのために書いているのではなくて、ただ書こうと思った自分のために書いている。
その時間は他の誰かではなくて、きっと自分自身に価値を与えている。
そう思えた時、自分がnoteを書くために使った時間も、子供の頃から大人になるまでにゲームに費やした時間も、自分に対して価値を与えるためにやっていたことなのかもしれないと思えてきた。
人が人生において、自分の時間を誰かのために使わなくてはいけないなんてことはない。
誰かに価値を与えなければいけないなんてことはない。自分がだれかに価値を与えらるなんていうのはただのうぬ惚れで、それよりも自分が満足したり自分の精神を安定させたりするというところは十分に価値がある。
だからぼくはスキがあればnoteのネタを考えるし、時間が取れれば記事を書き始めている。そんな風に没頭していければ、それが自分自身への価値になり、100発記事を書いたら1発は誰かのためになっているかもしれないのだ。
今日の記事だって、ここまであなたが読んでくれている。
少しでも価値を感じてもらえたかな?
そうだったらぼくはうれしいし、自分にも少しは価値があったかなと思うよ。
ありがとう、ぼくの「なんのこっちゃ」を受け止めてくれて。
またいつでも遊びにきてね。
じゃあ、またね。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?