めっちゃ倫理じゃん
高校生にもなると、大学受験を否が応でも意識せざるを得なくなる。ぼくが通っていた高校もそうで、受験に必要のない授業の間は、各々密やかながらも好き勝手に過ごしている印象があった。
倫理の授業はその典型例だった。センター試験(今は共通テストになったが)で倫理を使う子もいたにはいたが、たいていのクラスメイトは寝たり内職に励んだりしていた。ぼくも受験科目として使うわけではなかったが、くたびれて大学教授然とした倫理の先生に個人的な好感を抱いていたので、内職の合間に息抜きとして真面目に聴くこともあった。或いは、それを真面目とは言わないのかもしれない。見た目とはそぐわない、所謂べらんめえ口調で喋る先生で、話の内容は面白かった。
ある日の倫理の授業中のことだ。何かの話の拍子に、先生が次のような旨のことを仰った。
「お前ら、もし自分の失敗が、個人の能力の欠如のせいではなく性別のせいにされたら嫌だろ?」
先生は恐らく、同意を求めるべく前の方の生徒を指したのだと思う。ここで断っておくと、ぼくの通っていた高校は女子校である。一人称のせいでややこしくなって申し訳ないが、もう慣れてしまったのでこのまま進めさせてもらう。指された彼女は答えた。
「自分の能力の欠如のせいにされたほうが嫌」
この答えに先生は「おいおい嘘だろ?」と驚愕し、クラスで多数決をとることになった。基本的に先生がひとりでお話をするスタイルの授業で、誰かが指名されることは珍しかったため、この時点で既にクラスの大部分の注意は惹き付けられていた。
多数決の結果は、「自分の能力の欠如のせいにされたほうが嫌」だと考える生徒のほうが多いというものだった。
「なんて志の低いやつらなんだ!」と先生は呆れていた。そのくだけた言い方にクラスでは笑いが起こったが、ぼくは不思議な思いに囚われて、すっかり笑うのを忘れていた。
実は、ぼくも「自分の能力の欠如のせいにされたほうが嫌」という選択肢に挙手したひとりなのだ。
ぼくひとりが何かを成し遂げられないよりも、ぼくと性別が同じ人間がみんな何かを遂行できないほうがずっと楽じゃん、と単純に思ったのだ。自分だけ置いていかれるよりも、みんなで置いていかれたほうがいいじゃん。
ひとは楽な方に堕していく。今なら、倫理の先生がぼくらを一喝した理由がわかる。そんな弱腰の精神でいていいわけがない。みんなで置いていかれるのではなく、みんなで先に進まなければならないのだ。
今になって思うと、昼下がりのぬるくもったりとした空気の教室で、ぼくはあの倫理の先生からジェンダーの問題についての端緒を学んだような気がする。そしてあの瞬間は、倫理の授業以上に、真に迫って倫理だった。めっちゃ倫理だった。