『いつも私はいちばん好きなひとにだけ好きと言えない』
教室の窓から見える背の高い木が、恥ずかしげもなくその肌を晒して、まだ寒そうに枝を広げている。夏には緑の衣を纏い、冬になるとその衣を脱ぎ捨てる。にんげんとは反対だ…… なんてことをぼんやりと思う。静岡の方ではとっくのとうに桜が開花し、すでに一番の見頃を終えたようだった。
3年に上がる時にクラス替えはない。だから皆にとって今日は単なる春休み前最後の登校日、私にとってはこの学校で過ごす最後の日だ。
期待外れなほど普段と変わらない一日を過ごし、帰りのHRで一枚の色紙を貰った。
色紙には転校する私へクラスの皆からのメッセージが色とりどりに書き込まれていた。
—— 寂しいよ〜! 元気でね〜!
—— ◯◯ちゃん♡ 大スキだよ♡
大して話したこともないクラスメイトからのそんなメッセージは、正直少し滑稽にも思えたけれど、それでもやっぱり直筆のメッセージというのは嬉しいものだと思った。読みながら一人ひとりの顔が浮かんで、少しだけ目の奥が熱くなった。
そんな文字たちに囲まれて、中央に大きく手書きのイラストが描かれていた。額にハチマキを巻いて全力で演技をする応援団の男の子。その隣に描かれているメガホンで声援を送る男の子は、このあいだ観た映画の主演男優に似ていた。
掃除当番が教室の後方に下げた机と椅子を元の位置へ戻している。その邪魔にならないように、何人もの友人と最後の写真を撮った。大して話したことのないクラスメイトともピースサインを並べた。そうして少しずつ彼の居る窓際まで距離を詰める。
窓から射す太陽の光が彼の横顔を照らして、細い黒髪がほんの少し茶色に見える。今時珍しい細縁の眼鏡。
レンズの奥の瞳が不意にこちらを捉えてバッチリ目が合ってしまった。私は慌てて色紙を胸の前へ掲げ声を掛けた——
メガホンを持つ男の子がなんとかかんとかっていう俳優に似ているという話の途中で、横から河野が茶茶を入れてくる。
「いや誰だよ! 一文字も出てきてないじゃん!」
河野はいつも彼と一緒にいるやたら体格の良い男子で、彼とは1年の時も同じクラスだったらしい。
「うるさいなあ! 思い出せないんだよ!」
そんな私と河野のやり取りを見て彼が笑う。
彼の気をどうにかして引きたくて自然と声が大きくなってしまうのはいつもの事だ。本当は俳優の名前がなんだったかなんてあまり興味がなかったけれど、話が続けばそれだけで嬉しかった。
呼び出して告白をするつもりなんて毛頭ない。どうせ遠くへ行くのなら当たって砕けてしまおうだなんて、振る側の負担を思うととても安易で自分勝手だと思うし。仮に私の突拍子もない申し出に彼が頷いたとして、俗に言う遠距離恋愛とやらを上手にやる自信もなければ覚悟もなかった。
きっと彼にとって私は河野と仲の良い只のクラスメイトでしかないだろう。ひょっとすると河野のことを好きだと勘違いさえしているかもしれない。
じゃあ、また元気で、と別れの挨拶をした時、わざとらしく下手な笑顔を浮かべてみせた。どうせならとびきりの笑顔で「バイバイ!」と言ったほうが彼の心に残れただろうか。どちらにしても結果は同じだったと思う。それなら最後は笑えば良かったなと少しの後悔が残った。
6年後、美術大学を卒業したらしい彼の名が、とある映画のエンドロールに載っていると友人伝いに聞いた。
「すごいね、おめでとう!」連絡をしようかと思ってLINEを開いたけれど、なぜか知っていた気でいた彼の連絡先は見当たらなかった。
なんだかたまらなく彼の顔が見たくなって、ひさしぶりにアルバムを開いてみる。転校をした私の手元に、彼と過ごした学校の卒業アルバムは当然ない。100円のフォトファイルに写真を入れただけの手製アルバム。どこを探しても彼の写真は見つからなかった。
最後のページと裏表紙の間に挟んでいた色紙は、フォトファイルからはみ出した部分だけ少し色褪せてしまっていた。
あのとき不意に目が合って「これありがとう。やっぱり上手いね。すごく嬉しい」たぶんそんなような言葉を伝えたと思う。そのとき彼が見せた、ちょっぴり照れくさそうに笑った顔は今でも鮮明に思い出せるのに、あの時の会話がもう思い出せない。記憶もこの絵もこれ以上淡くならないように、私はそれを、もう一度大切にフォトファイルへ仕舞い込んだ。
彼が描いたその絵の中には、大きく「がんばれ」と私へのエールが記されていた。
※本作品は、小説投稿サイト『小説家になろう』にも重複投稿しています。(ID:1692261)