三島由紀夫「宴のあと」構成読み解き——「敗戦」を描いた小説——

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あらすじはこちら。

「敗戦」の寂寞

 この小説はただの選挙を描いただけの小説ではない。

 物語展開の重要な曲がり角となる第十五章、第十六章では「敗戦」という単語が繰り返し強調され、いかにも不自然な箇所となっている。ということはつまり、三島はここで「物語の裏を読め」と言っているのである。この「敗戦」が一体何を意味するのか、この記事を読まれている聡明な方々ならもう既にお分かり頂けているであろう。(断じて、断じて「終戦」などではない。これは正真正銘の「敗戦」なのである)

 作中の「保守党」とはつまり、「敗戦」の結果守るべき価値を放棄してアメリカナイズされた後の「戦後ニッポン」であり、アメリカそのものと言っても過言ではなかろう。

 イギリスに影響され、「革新党」に所属しながらも江戸時代以来の儒教的価値観を固持する元外交官の「野口」は、「敗戦」以前の日本のことだろう。これは同時に戦後における愛国心などの精神が保守よりもむしろ革新側、左翼陣営に奪われたことへの指摘とも読める。

 そして女主人公「かづ」の目線は明らかに三島のそれであるが、これは戦争に協力していた民衆、銃後の人々の象徴ということになる。選挙前のかづの奮闘っぷりの描写は、かつて日本人が文字通り、全身全霊を尽くして先の大戦を戦ったことを意味している。だが圧倒的な物量差を前に、野口とかづは「敗戦」を迎える。その後かづはかつて営んでいた高級料亭「雪後庵」(経済)を復興させる代わりに、野口との別れを余儀なくされるのである。

 さらに第十六章、環夫人のセリフ。

「当節はこんなものまでお高くってね。アメリカなら屑みたいなものなんですのに」

 これは「敗戦」直後の物価高騰を表している。

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 つまりこの小説は、戦後復興をなし得たニッポンに対し「敗戦」は未だに繰り返されているぞ、自分たちの誇りは失われたままなのだぞという三島の魂の叫びなのである。経済を全否定している訳ではない。彼はただ「誇り」「意地」「プライド」といった形而上的、精神的価値が放棄されていることに対し批判しているのである。(その上現在の日本は古典派経済学の呪縛から抜け出せず、長きに渡りスタグフレーションを持続させているのでなおのこと悲惨なのであるが……)

 そしてこのテーマは後の「午後の曳航」や「英霊の聲」、そして遺作となる「豊饒の海」にも受け継がれていく。

日本の非政治的風土

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 日本は自然豊かである反面、規模の大きい災害が頻繁にある地域だった。当然人々は団結せざるを得ない。中世はそれなりに争いもあったが、それでも他国には及ばないだろう。
 一方ヨーロッパは土地が貧しく、様々な民族が入り交じっている。バランス・オブ・パワー(勢力均衡)といった外交理論が発達した背後には、中世ヨーロッパの戦争に次ぐ戦争の歴史があったのである。

 歴史を見れば分かるように、極端に勢力を拡大させた強国は周辺の国々から警戒される。やがては包囲されて戦争になり、力を浪費した覇権国は没落するだろう。ナポレオン戦争時の対仏大同盟や、日米開戦直前のABCD包囲網がその代表例と言える。だからこそ外交は、好き嫌いやイデオロギーに基づいた情緒を排除し、各国の勢力の均衡を保つことで戦争を回避しなければならないのだ。(地政学上朝鮮半島は日本の防衛の要だったので日清・日露戦争は避けられなかったのだが。自国の勢力が周辺国に比べ弱い場合、勿論その拡大も必要となってくるであろう。無論、反韓・反中を叫び、中国崩壊論を見聞きして安心しているようでは、所詮は駄々っ子外交しかできない韓国と同じ穴の狢である)

 戦前の日本はヨーロッパのこういった一面を理解し、吸収することに失敗したのである。伊藤博文は分かっていたようだが。だからこそ伊藤は日韓併合に反対したと考えられる。

 野口(戦前・戦中の日本)は非常に道徳的な人間である。良く言えば理想主義者、悪く言えば地に足が着いていない。情緒に流されるので理性的になれない。彼にビスマルクのような外交手腕を期待するのはナンセンスだ。

 かづ(銃後の民衆)は現実に流されて行動する。だから一貫して守る精神的価値がない。彼女が野口を裏切った結果、物語が悲惨な結末を迎えるのは必然の流れである。一度「敗戦」という事態を迎えてしまった以上、その雪辱は保守党(アメリカ)を相手にしない限り果たされないのだ。果たしてこれが、真に「政治的」な行動と呼んでいいのだろうか?

 ド・ゴールは偉大な政治家であった。東西冷戦の二極構造を「非道徳的」と批判し、二度の大戦で危機に瀕したフランスの精神的価値の復活につとめた。彼は世界が再び多極化へ向かうことを見事に予想していたのである。このような人物こそ、「政治的」な人間と呼ぶに相応しいのではなかろうか?

 現在のニッポンにおいて、「政治的」と呼ぶに値する人間は極少数であろう。勿論その中の一人にこの記事を書いている私がいるとは断言できない。「宴のあと」の空虚を乗り越える為には、唯物論に陥らぬ精神と真の西洋的理性への理解を兼ね備えた人物が必要なのである。

 最後にこの作品で、私が最も心を打たれた一節を引用し、この記事を締めくくろうと思う。

金が何物より強力だという信仰は、かづにとって別段新らしい信仰でもなかった。しかしかづは少くとも心情をこめ祈りをこめて金を使ったが、敵の金は機械のように押し寄せて来たのである。そこでかづが追いやられる結論は、金が不足だったという嘆きよりも、自分の心情も野口の論理も無効に終ったという嘆きである。あの精魂こめた運動のあいだに、かづが一旦は信じた人間の涙や、微笑や、好意的な笑いや、汗や、肌の暖かみや、……そういうものもすべて無効に終ったという嘆きである。(中略)そして、このことからの当然の類推として、かづの目に映った野口の敗北も同様のものだった。それは野口の「男」が「金」に敗れたのである。(三島由紀夫「宴のあと」)

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