「どうしたいの?」に隠された違和感を分解してみる。

 「貴方はどうしたいの?」って聞かれると戸惑ってしまう。なぜなら、普段の生活を送るときに、誰かに向かって「~したい!」ということがあまりないからだ。

 しかし、そんな私も人とコミュニケーションをとるときに「貴方はどうしたいの?」という言葉をよく使う。一番よく使うのはアルバイトで塾講師をしている時に生徒に向かってつかう。生徒のモチベーションが下がったり、反抗的な態度をとったりするときに、なんでこの子はこのような態度や言動をするのだろうかということを見つめるからだ。その答えを導き出すソースとして、まずはその子自身のことを知るために「貴方はどうしたいの?」というワードが出てくる。

 そう考えると私に向かって「貴方はどうしたいの?」というワードを投げ掛けてくれる人って自分の意見とかアドバイスとかそういうものを投げ掛ける前に、私の立場を理解しようとしてくれているのだとわかる。

 しかし生きていると自分自身の「~したい!」という欲求に忠実に生きている人なんて極僅かしかいないんじゃないか。先日、私が「貴方はどうしたいの?」と投げ掛けた塾の生徒だって毎日そのように聞かれているわけではないだろう。むしろ「勉強しなさい」だとか「ゲームやめなさい」だとかそういう義務的なものが日常を埋め尽くしていると思う。私だってそうだ。

 「~したい」よりも「~しなくちゃ」という色々な義務が日常の中でありふれているから、いざ「貴方はどうしたいの?」と聞かれると簡単にスッと答えられない。むしろ、(これって、正直にいっていいの?)という戸惑いや、私みたくそこに対する違和感を感じる人はとてもいると思う。

 ただ一方で「どうしたいの?」っていう疑問に答えられた時になんとも言えないスッキリ感がある。普段義務感に包まれている人ほど、「あ、私は本当はこうしたかったんだな」って自分自身を見つめ直すきっかけになるし、自分がどうしたいか分からない人は質問してくれた人と対話することによって自分からどうしていきたいのかが見えてくる瞬間を迎える。こんな風に普段「貴方はどうしたいの?」と聞かれて戸惑う人こそ、その質問が重要であることも多い。

 その上に「貴方はどうしたいの?」って質問してくれる人ってその時点で相手の立場に立とうとしてくれてるから、大体の場合、その質問に答えたあとに真っ向から否定するなんてことはまずない。きっと子どもも大人も関係なく、自分のしたいことを認めてもらえる安堵感は大きなものだ。

 私たちの日常的な義務から解放してくれる魔法の言葉「貴方はどうしたいの?」。是非使ってみてね。

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