特殊な学校と思っていない。学校のあるべき姿がこうなんだろうと思っている。【見学:北九州子どもの村小・中学校】
北九州子どもの村小・中学校を見学しました。
1時間ほど学校全体の説明を受けました。
これまでの勝山、高木さんのお話を復習してなぞる形で理解を深めました。
かつやま子どもの村小・中学校を訪ねたこと
北九州子どもの村中学校長 高木さんのお話を聞いたこと
改めてメモした内容
自由の意味
映画でも取り上げられた「自由」
何をしてもいいという乱暴なメッセージではなく、教育目標に掲げている3つの自由を大切にしている。
感情面の自由
無意識の中に秘められた不安、緊張、自己否定感などから解放され、生き生きと躍動すると同時に、自己意識がしっかりしていて、しかも自信と自己肯定感をもって生きる子になって欲しい。知性の自由
規制の知識や技術を受け身的に習得するのではなく、生活の中から見つけた具体的な課題に取り組み、知識や技術を創造する体験を積み重ねて、知的探求の態度と力を伸ばして欲しい。人間関係の自由
徳目主義の上からの道徳教育によってではなく、心理的に自立した個人として、みんなと目標を共有し、役割を分担して問題を解決する体験に参加して、共に生きる喜びを味わい、人間関係の術を学んで欲しい。
個人的な関心のある『協働観』にあたる部分はこの「人間関係の自由」に包含されていると考えました。
この3つの教育目標を3つの基本方針に落とし込んでいます。
自己決定の原則
子どもがいろいろなことを決めます。個性化
一人ひとりの違いや興味が大事にされます。体験学習
直接体験や実際生活が学習の中心になっています。
この方針のもと、プロジェクトや基礎学習など、具体的な教育活動がデザインされています。
映画では「自由」をフューチャーし、「プロジェクト」が中心に扱われていますが、実際はいろいろな時間が設定されています。行って初めてわかった。
校内を見学
ミーティング
とあるプロジェクトの中でミーティングが行われていました。
基礎の時間に騒がしい人がいるようなことが議題として挙げられており、数十分間話し合いが行われていました。
その間、スタッフの「大人」はホワイトボードに意見や論点を整理して記録することを行い、ほとんど口をはさみません。
議論は子どもたちが進めています。
小1〜小6までの幅広い年齢層の子どもが卓を囲んで喧々諤々。
「小1はいるばっかりで何が起こっているかはわからないかもしれないが、そこに参加していることから徐々に学んでいく」
という高木さんの言葉が思い出されました。
中学生の姿
中学生は教科の専門性が高まることもあり、「教科学習」の時間が設定されています。
今回はこの中学生の姿を見られたことが大きかったです。
授業では大人がそれぞれに学習課題、資料を作成します。
おそらく教科用図書は参考書的な扱い方になっているのでしょう。
英語は学園長の堀さんが饒舌に語り、授業を進めていました。
堀さんはウィークデー5日をかけて「きのくに」の5校を回っています。
さらに別の教科。
途中で大人の確認に対して、
「なにやるかわからなかったから全然やってない!」と当たり前のように言える子どもがいました。
それを言えること、それをそのまま受け止める周囲、大人がいたことが印象的でした。
合理的。
中学生の様子は正直言って「公立学校の中学生よりずっと大人びている」印象でした。
静かにしろ、と言われているから黙っているのではなく、必要だから聞いてメモしている。
逆に必要があれば都度声を出す。
それらを当たり前の文化としているから、より大人な「民主的な市民」に見えたということかもしれません。
印象に残ったことば
中学校長の高木さんにアテンドしてもらいました。
高木さんの印象に残った言葉
特殊な学校とは思っていない。学校のあるべき姿がこうなんだろうと思っている。
公立学校、フリースクールと経験された高木さんが発するこの言葉から、「あなたはどう教育を捉え、どう実践するのですか」と問われた感じがします。
ここが一番大事なのにここを話す時間が一番足りてない。
もしかすると教育改革、ここさえやれれば、かもしれません。
理論的な基礎がないと揺れる
きのくには学園長の堀さんがニイルの論をもとにした教育理念を確かにし、教育活動を展開しています。
年に一度、学園の職員が一堂に介して研修する際もそこを参照するとのことでした。
翻って、その教育を語る「論」なしにここまでの教育は成立し得ないのだろうなと思います。
オンライン講座での加藤校長さん、勝山の丸山校長、そして北九州の高木校長と、言葉は三様でも、その根底の理念を一にしていることが見えます。
それこそがきのくにの力であるのでしょう。
公立は困難さもあるかもしれませんが、そんな営みが実現したら相当な教育効果が発揮されるはずてす。