子ども観は出来上がっていなかった【訪問:森のこども園てくてく】
自分の子ども観は定まっていたようで抽象的だったのに気付かされ、解像度がちょっと上がりました。
森のこども園てくてくの公開保育に参加しました。
今日の公開の趣旨は幼少接続、そのためのアプローチカリキュラムの説明を受け、活動のようすを参観しました。
年長の子どもたちの「かんがえるとき:シンキングタイム」と、その後の「自由時間」を参観しました。
かんがえるとき
年長の子どもとスタッフが卓を囲み、テーマについて意見を出し合います。
Q.ありがとうとは
Q.おせわになったひととは
Q.どんなときにありがとうをいうか
難しいテーマにそれぞれの切り口で意見を出します。
スタッフは気が散ってしまう子どもにも強いるでもなく柔らかに促します。
学校勤務時代の、さまざまな場面を回顧します。
叱るでもなく、強いるでもなく、嫌味を言うでもなく促すのって根気がいるし、大変なこともあります。
それをうまくやれない大人を見たこともありますし、自分がそうなっていたこともあります。
今日のスタッフの方の眼差しは、確かに理念を持って子どもと接しているのがわかるそれでした。
自由時間
自由時間になると俄然活動的になる子どもが増えます。
あちこちで走り回る人が増えたところで「カエルの卵を見に行こうか。」
大人も子どもも次々と着替えて外に出ていきます。
そんな中、さっきまで活動的にしていた一人が外に出ようとしません。
そのギャップが意外だったので外に行かないのか聞きました。
「汚れるから行かない。結構きれい好きなんだよ。」
先入観を抱いていたのに気付かされました。
活動的な子ども≠外に進んで出ていく子ども。
今日は声に出してくれたので知れましたが、子どもが声にしていない思いをこちらが先入観で補完していることがあるのでは?と大きな気づきを得ました。
その後の子どもたちの活動の様子、関わりによって、今までの「子ども観」の解像度がえらく低いものだったとわかりました。
そして、その明確な「子ども観」をスタッフが有しているから、一貫した保育がなされているのだと感じます。
さらには、スタッフの「子ども観」は園長自身の振る舞いや言葉の機微が形作っていくことも現場の空気によって伝わってきました。
何をするかよりも、何を考えているのかこそが保育・教育の領域では意味を持つようです。
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