見出し画像

感覚のツボ - 最近何をしたか 9/29-10/9

今ここで私が使ってるPCのキーボードは信じられないくらいの低価格で買ったメンブレン式のものと、Bluetooth接続で使っているメカニカルキーボードの二つだ。それを使い分けているという感じでもないのだが、実際ここではメンブレン式のキーボードをずっと使っていたので、一応そっちをメインとしている。フルキーボードなのでカーソルやテンキーなどもあり、基本的にはBluetoothキーボードを使用している場合もその奥に鎮座しているので、いつでも手を伸ばし、特にテンキーとカーソルキーを使用することは多い。DeleteやInsert、Print Scrn(SysRq)キーや、たまにはPage UpとDownキーを使うためにも手を伸ばす。他方のメカニカルキーボードは有線でも使えるが、現在はBluetoothで使っている。メンブレンのフルキーボードがあるのでフレキシブルに使えるからだ。

古のメンブレン

低価格のメンブレンキーボードの正体は、いつ買ったのか分からないほど古いeMachinesのフルキーボードで、一時期の量産されたシステムから余ったものだろう。至極普通の104キーボードに普通じゃないeMachinesの拡張キーが付加されていて、その拡張キーの数も多い。だがキーボードとしてそれほど肥大化しているわけでもなく、ちょっと大きい104キーボードという感じ。打鍵感になにも感じるものはないが、PCパーツショップ店の店頭に280円という安価で置いてあり、見た目も面白いし英語104キーなので買った。その値段は新品とはいえジャンク扱いのようなもので、その時期はそういうものが店頭にあふれていた。後にこのeMachinesを買収するGATEWAY2000やDellのものもあった。

その当時そういう新品だけどジャンクのように扱われていたものはいろいろ存在していて、過剰の余剰がそのままジャンクとして流れてきたというようなイメージだ。PC/AT互換機の海外メーカーを見てもPackard BellやMicronなどの日本で聞きなれているものもあり、一時セガのテラドライブのキーボードとかも同様に売られていたが、今思うとなぜそれを確保していなかったのか不思議だ。

拡張されたキーはまず、ファンクションキーの上にファンクションキー以上の数のアプリケーションに対応させる専用のゴムキーがあり、それぞれNewsやBanking、Musicなど多数ある。キーの下にNewsなどの文字が刻印されているのにも関わらず、その上に存在するアイコン的なシートを好みのデザインに変えられるような作りになっているのが面白い。そして、テンキーの上にはボリュームの+と-、Telephones、Surf、Searchなどのコミュニケーション機能へのショートカットがある。ドライバやアプリを入れたこともないので、これらを一度も使ったことはない。そのような変則的ではあるが、普通のメンブレンキーボードだった。

電磁波メカニカル

次にBluetooth接続で使っているキーボードだが、メカニカルキーボードでミニキーボードだ。104キーボードのメインキーのみの構成でカーソルキーは独立して存在しない。ファンクションキーを押すにもファンクションキー(Fn)キーを押すことが必要で、カーソルキーも同様だ。昨今の流れかLEDのイルミネーションも多様で、様々な色や効果を選べるが私は使っていない。気が向いたら使う気にもなるかもとは思うが、家で一人でキーボードを打っててキラキラな気分には到底ならない。キースイッチはOUTEMUの青軸互換のようで現時点で不満はない。チャタリングが起きているようなこともなく、音と感触とを楽しめている。だから青軸を選んだようなものだし、そこに打っているという意味を探しているのかもしれない。

感覚のツボ

今回なぜキーボードのことを書いたかということキーボードは結構重要なツールで、特に感触や音は非常に思考やリズムに響く。時には隣に人がいる場合とか、そういうときには静音スイッチもいいなと思うこともある。しかし集中して何かをしている時には、やっぱり打てば響くような、そういうツールとしてのもの選んでしまう。最初に今ここで私が使っていると書いたのは、他の場所に座れば他のキーボードがあり、それはノートパソコンのパンタグラフキーボードであったり、別のワイアードオンリーのメカニカルフルキーボードだったりする。そしてまだ箱から出してないキーボードもあったり。そういえば静電容量無接点方式のキーボードは使ったこともないし、現時点では買う気も起こっていないな。

いつからブラインドタッチ、今でいうタッチタイプを始めたのかは憶えていない。いつのまにかということだったような気がする。そうなって打鍵を重ねていれば、だんだんとそれは手足の先というか、指先の先になってゆく、それが心地よいのだ。以前小学校の頃にリコーダーと一体化してなんでもすぐに吹けるようになったことがあった。そういう脳の延長上の肉体のように、繋がっている感が好きなのだ。それをフィードバックするものが音や寒色だと思っている。もちろんそれは個人的なものだろう。リコーダーにしてもキーボードにしても、しかし、そこがなんとも変えられない、自分としての感覚のツボのようなものなのだ。


やんわりと

落日を待っているのは夜がおとずれるからではなくて、また次の朝がやってくるからだろうか。夜も好きだ、と思ってはいるのだけれど、少し怖いし意味もなく不安になる。夜の静寂や星空も好きだし、不安も悪くないのだけれど。朝に日がのぼり始めれば、やんわりと伝わる。やっぱりね、ぼんやりとだけれど温もりのような。こころに刻み込まれているのかも。そういう世界があるのかもしれないね。


野放図の恐怖

今は聞こえないとか喋れないとかそういうことはないのだけれど、衰えを確実に感じている。一番問題なのは記憶で、それだけで不安になってしまう。若さだけの力において、なにかを積み重ねてきているわけではもないのに、そういった部分に不満を持ったことはない。誰かに指摘されたこともないので野放図だ。現時点でも人に指摘されることはないが、それは単純に人との接触がないだけだろう。確実にきている。


痕跡

そこにはなにもなくただ影を感じるだけ。だけどなにかしらの痕跡を感じることはできる。それはぬくもりだとしても、傷だったとしても、物だったりしてもね。ぬくもりはかつてはあふれていたが、今ではほんのりとしたこころだけ。傷は治りかけていても、その記憶がフラッシュバックする。そして物はずっとそこにあり変わらぬものかもしれないし、いつでもどこかにあるものかもしれないね。そしてそれらの痕跡が誰かを構成しているのだろう。



いいなと思ったら応援しよう!