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自分のテリトリーから出るということ - 最近何をしたか 10/2-10/12

自分のテリトリーから出るということ

毎日同じレールの上を走ってるように、決まったパターンを繰り返してしまう。変化があるとすれば散歩に行く場所やコースを変えるとか、いつも買ってる食品ではなく新しいものに挑戦するとか、それらのための運転コースを変えてみるとか、そういうことくらいだ。それはここnoteでも同じで、見出し画像を作る工程も毎回同じようなものだ。それが一つの自分だけのスタイルとでも呼べることができればいいのだが、何も変わらず惰性。しかも老いも加わり何をしているかも分からないから。

自分のテリトリーから出るにはどうすればいいのか。衝動的に旅行でも行くか、それとも心臓が破れるまで突っ走るか、泳ぎ続けるか、転がり続けるか。そういえば私は病人だった。しかしそれは駄目だ。その意識が自分を制限している。肉体を制限しているということではなく、肉体に制限があるという認識の過剰さが、すべておいて制限につなかっているのではないだろうか。 肉体の制限が駄目というわけではない、結局は自分自身が足りないのだ。打ち破りたい。この衝動はおかしなものだろうか。

先人に素晴らしい人はたくさんいる。何歳になろうが、病気があろうが、制限があってもいつでもどこでもやれる人だ。だが私はそうではない。これを破るにはどうすればいいのだろうか。考えているだけでは何も起きない。

今は何もできてはいない、上記の問題があるゆえにその呪縛に飼いならされてしまった。何をしたいか何を求めているか、単なる小手先のことくらいしか分からない。それを感じた今、変わらなければならない。静観しているが何かがあればここから飛び出す。この自分のテリトリーから。その意識を持ち続ければいつか越えられるだろうか。越えても気づいてなかったりしてね。でも前よりはいいような気がする。そしてそうしたい。


かすれ

色があふれた日常からの逸脱。いや実際はそんなに溢れているわけでもなく、世界はいつまでも世界。一方では色が抜けたようなグレーの世界で、多面体の他の面では真っ青で、他では黄色い。だから手を下したとしても実際は見ていることしかできない。いっそフェードアウトして消え失せればどれだけ同化できるだろう。空気と同じ。それはも何もないということ。いや、知っている。


ページ分割

ページ分割、利用している側の人であれを喜んでいる人はいるのだろうか。不思議だ。そこに広告があり、それがあるから無料なのだよ文句を言わず享受しろ、ということか。別に有料でも本当に必要なものならいいんだろう。しかし現時点で無料でそれをしていないウェブサイトもあるし、意味もなくそれをしているのはユーザビリティを考えぬ面倒なことだなというだけだ。


多面

雨が降っていて、こころが降っていて、音は溶けている。つかもうと、触れようと、感じようとしているものは。なんだろうか、そして見上げてしまう。精一杯やり続けても届かない現実。その対象とは。自分では分かっているが、目をつむり落ち着いてみる。そうすると、ふと水たまりに落ちているちぎれ顔。今日は雨の日だからね。


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