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どうして重量単位「グラム」に「瓦」字を宛てたのか?(承前)

『西洋度量考』の「瓦蘭馬ガラムマ」はどこから引っ張って来たのか?

前回取り上げた『西洋度量考』の巻頭「例言」をみるに、

一 書中原曰ト云者ハ寫本ノ原本ス又遠西醫方名物考及ビ同書ノ補遺ニ載ル者新制ノ度量ヲ云ヿ詳ナルハ之ヲ采用ス略シテ名考、名補ト云テ引用ス

と書かれている。

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0512/bunko08_c0512_p0006.jpg

ここで「寫本ノ原本」というのは、☝初めの方で紹介した日本計量史学会編集部会「郡上蔵版『西洋度量考』」記事にあるように、志筑忠雄の稿に馬場佐十郎が書き加えをおこなったという『度量考』写本のことを指している。それに続く「遠西醫方名物考及ビ同書ノ補遺」の方はオランダからの輸入書何冊かを元に、海外産はもとより日本国内に産する薬品原料も含めて解説した薬学書で、前者が宇田川玄真の纂訳に養子の(前回『蘭學重寳記』の著者としてその名がちょこっと出た)宇田川榕菴が校補を加えたもの、後者が玄真の書き遺したものを榕菴が中心となって新たな情報を盛り込みつつまとめたもの、という本のようだ。

この本篇36巻、補遺9巻という大部の資料が残らず、ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センター(CODH)サイト

上で、国文学研究資料館の「日本古典籍データセット」のひとつとして公開されている。

本篇卷一巻頭の「凡例」をみると、「引用書目」に続いて度量衡単位についての解説が「秤量符」として載っている。

http://codh.rois.ac.jp/iiif/iiif-curation-viewer/index.html?pages=200021697&pos=14&lang=ja

しかしここにはご覧のとおり、メートル法の単位は登場しない。続いて、補遺卷一巻頭の「凡例」をめくっていくと、

http://codh.rois.ac.jp/iiif/iiif-curation-viewer/index.html?pages=200021697&pos=1145&lang=ja

○雜貨ノ秤量ハ坊間商賈ノ通用スル處ナリ蒸餾水《ジヤウリウスヰ》把爾牟《パルム》立方ノ重サヲ封度ポンドトシ此ニ基《モトヅキ》テ其他ヲ定ム(引用者註:ルビ振りではない読みは推定)

とあって、これに続いて

封度ポンド] 前日念佛尺ノ寸立方容器.數樣ヲ造テ蒸餾水ヲ盛リ自ラ精《クハシ》ク稱《ハカ》リ試ルニ其重サ我《ワガ》七錢五分アリ今之ニ據《ヨリ》テ筭《サン》スルニ彼ノ把爾牟立方ノ蒸餾水ハ我二百六十六錢八分一釐四毛四弗ニ當ル
穩斯オンス] 封度之十分一 我二十六錢六分八釐一毛四弗四
羅獨ロード] 穩斯之十分一 我二錢六分六釐八毛一弗四四
瓦蘭馬ガラムマ]又[微苦苴ウイクチー] 羅獨之十分一 我二分六釐六毛八弗一四四
古爾列兒コルレル] 瓦蘭馬之十分一 我二釐六毛六弗八一四四
(引用者註:ルビ振りではない読みは推定)

とある。なるほど、『西洋度量考』の「「量 grammaガラムマ」の解説に

瓦蘭馬ガラムマ又「ウィクチー」ト云名補ニ云羅獨ロードノ十分一我カ二分六厘六毛八弗一四四

とあったのは、ここをみたのね〜。

ちっとも「メートル」法じゃなかった「ガラムマ」伝来時のメートル法

……と、ちょっとまて。

ガラムマ」の別称に「ウイクチー」があるのはよいとして、どーして帝国単位そっくりの「ポンド」とか「オンス」とか出てくるんだ? ほかにも「ロード」とか「コルレル」とか……何これいったい!?

そもそも「パルム立方」って? とおもって前の丁をめくってみると、書き出しのところには、

一千七百九十八年 寛政十年 佛蘭西フランス伊斯把尼亞イスパニア。和蘭。意太里亞イタリア弟那瑪爾加デー子マルカ雪微設兒スウイツセル。トスカーン 以上國名 ノ學士輩大ニ集會シテ盡ク闔國《カフコク》度量ノ舊制ヲ改革シ新タニ歐邏巴《ヨーロツパ》諸國。通用新制ノ度量ヲ建ント議《ハカ》リ一千七百九十九年 寛政十一年 竟《ツヒ》ニ羣賢ノ衆議決著《ケツチヤク》シ其制全ク成ルト云其法地周ノ四千萬分一ヲ會爾ヱルト名ケ尺度量衡。皆之ヨリ筭出ス(引用者註:「闔國こうこく」は「国じゅう」のこと なおルビ振りではない読みは推定)

とあって、「寛政十年(1798年)にフランス・スペイン・オランダ・イタリア・デンマーク・スイス・トスカーナの学士がヨーロッパ各国統一の度量衡単位系を決めるための会議を開き、翌十一年(1799年)ついに「地球の円周の4千万分の1を1エルとする」と決議するに至り、長さだけでなく容積や質量の単位もすべてこれを基に算出することになった」という、メートル法制定に至る経緯とおぼしきエピソードが紹介されている。

そのメートル法制定(実は当時フランスは、革命のごたごたの真っ最中だった)に至るまでの苦難に充ちた歴史については、東京都計量検定所が公開しておられる、アンリ・モロー+高田誠二『メートル法の起源』に詳しい(☟の「計量展示室の公開」のところの囲み記事内に、PDFダウンロードのリンクが貼られてある)。

考えてみれば、十八〜九世紀のヨーロッパはフランスに限らず、どこもかしこもちょっちゅういがみ合って揉めていた時代だ。

平凡社+成瀬治『平凡社カラー世界史百科』(1978年初版第1刷 平凡社)

ちょっと古びた、でもわかりやすいので愛用している世界史地図帳でその辺りをみてみると、

平凡社+成瀬治『平凡社カラー世界史百科』(1978年初版第1刷 平凡社)

合従連衡しつつ、あちらこちらでドンパチやっているのがわかる。因みにメートル法制定国際会議の参加国のひとつ、フィレンツェに首都をおいたトスカーナ大公国はその後次第に国力を失っていき、ついには安政五年(1859年)に勃発したイタリア統一戦争にまきこまれ、その翌年に滅びたという。

平凡社+成瀬治『平凡社カラー世界史百科』(1978年初版第1刷 平凡社)

一国の為政者でさえ、みずからの領内すらうまくまとめ切れずにいるようなこんなめちゃくちゃな時代に、ヨーロッパの一部とはいえ複数の国で通用する国際単位の制度をとりまとめ、しかも実際に世界に向けてひろめる第一歩を踏み出してみせるとは……よくぞ、とおもわずにはいられない。

さて、「凡例」の続きを読んでみよう。ここに早速「會爾」が出てくる。

會爾ヱル] 按《アンズル》ニ 本邦天學家。地ノ一度ヲ二十八里二分ト定ム然レバ地周ハ一萬三千一百五十二寸八分九釐二毛四弗八ナリ然レトモ今舶來ノ新制尺ト我京都ノ念佛尺ト比較スルニ我三尺二寸八分八釐八毛九弗弱ニ當ル○念佛尺ハ精密ノ曲尺
耳垤ルーデ] 十會爾ヱル 我三丈二尺八寸八分八釐九毛弱
迷爾メイル] 百耳垤ルーデ 里ト譯ス我九町八間八寸九分許
巴爾牟パルム] 會爾之十分一 掌ト譯ス我三寸二分八釐八毛九弱
兌母ドイム] 把爾牟之十分一 我三分二釐八毛八弗九弱
私多列比ストレーピ] 兌母之十分一 我三釐二毛八弗八八九弱

グラム」は1「立方デシメートル」(=10立方センチメートル)の(精確には真空下で摂氏四度の)蒸留水の質量の1千分の1だから、「ヱル」=「メートル」ならば「パルム」=「デシメートル」「ガラムマ」=「グラム」になるから勘定は合っている、ということになる。

ついでに、その次の容積のところも引いておくと、

○凡ソ容器マスニ液料。乾料ノ別アリ秤量カケメニ雜貨。藥品ノ別アリ液料ノ容器ハ
カン] 把爾牟立方 我五合四勺九才弱
末苴マーチー] 罕之十分一 我五勺五才弱
賓傑爾弗度ヒンゲルフード] 末苴之十分一 我五才五弱
發篤ハット] 罕之十倍 我五升四合八勺八才弱
○乾料ノ容器ハ
骨弗コッフ] 罕ト同シ
[末苴] 液料ノ末苴ト同シ
失結兒百爾シケルペル] 發篤ト同シ
𠕋屈サック]又[繆的ミュッテ] 失結兒百爾之十倍 我五斗四升八合七勺九才弱
剌斯篤ラスト] 三十𠕋屈 我十六石四斗六升三合六勺七才許

ということで、「」=パルム立方、つまり立方デシメートルだから、これが「リットル」のことなんだな、とわかる。

わかる、のはよいとして、「グラムマ」以外はメートル法単位と似ても似つかないヤツばかりじゃないか〜。単位系システムはともかく、呼称として「メートル」すら出てこないこれの移入を「メートル法の受容」といい切ってしまっていーのか!?

とおもって、日本計量史学会『計量史研究』Vol. 36 No. 1(2014年)に載っている山田研治日本におけるメートル法受容の起源——緒方洪庵『遠西醫方名物考補遺』凡例——」という論文をみてみると、「1.はじめに」の書き出しに

メートル法受容の起源についての論攷は、今井溱《いたる》(以下、今井)「蘭学時代のメートル法」『科学史研究』No. 80(1966)や橋本萬平(以下、橋本)「西洋度量衡の受容(1)、(2)、(3)」『計量史研究』Vol.20、21、22,(通21,22,23)(1998、1999、2000)などの先行研究がある。(中略)これら、今井、橋本の両者の研究は、伊能忠敬説(以下、伊能説)による「緯度1度=28.2里」「1エル(會爾(尓)、m)=3.289248尺」を基にしたメートル法、すなわち新制會爾(尓)(1m)による尺貫法への換算に関しての論攷である。

とあることから、計量史ギョーカイ的にはこれを「メートル法」と呼んでしまってよろしい、ということになっているらしいのがみて取れる。

ちなみに、☝のオランダ式メートル法の解説が出てくる『遠西醫方名物考補遺』の「凡例」がこの論文中で「洪庵の凡例」と呼ばれているのは、「凡例」の最初のところに何ヶ所か、書き手の自称として小さく「」と書き込んであるのが緒方洪庵の名と一致することから、彼の手になるものと断定してのことのようだ。

論文の続きを読むと、寛政十年(1798年)から翌年にかけて開かれた「メートル法決定にかかわる国際会議」にオランダから参加したうちのひとり、ファン・スウィンデン自身が著したメートル法についての本が日本へ舶載されたのは嘉永二年(1849年)になってからのことだそうだが、

もっとも、最初のメートル法国際会議についての情報を明らかにしたのは、洪庵の凡例(本稿2.2)であり、スウィンデンを中心にいち早くオランダに流布したメートル法は、1830年代には日蘭交易から我が国に直接的に波及した。……

とあるから、「ガラムマ」が初めて我が国に紹介されたのも補遺が最初、ということになる。つまり、それを「瓦蘭馬」と漢字で音写したのも、やはり緒方洪庵が初めての人だった、ということになりそうにおもえる。

日本におけるメートル法受容の起源」論の「3.「ホルクスメートキュンデ」子一デルドイツセ・アポテーキ(ク)」項をみると、「洪庵の凡例」について次のように解説されている。

洪庵は、洪庵の凡例(『遠西醫方名物考補遺』の凡例)序文で、先ず、本編、宇田川榛斎『遠西醫方名物考』文政1(1818)年の宇田川榕庵の凡例による旧オランダ量衡とは異なり、新制オランダ度量衡を掲載することになった事由を記している。
洪庵の凡例の序文では、洪庵の師である宇田川榛斎が、「客歳申午ノ仲冬」(天保5(1834))に病につき、死期を感じた榛斎は、自らは数学に疎く、オランダで新制度量衡への改革があったが計算が困難なことから、『遠西醫方名物考補遺』の凡例には、新制度量衡を掲載して欲しい旨、遺言(遺命)命)されたと記している。とりわけ、新制度量衡については、先に刊行した『遠西醫方名物考』の凡例では旧制の「亞謨斯的爾ノ薬秤二據テ考定」としたが、「彼邦近來ノ著書。往々新二度量ヲ革ルコトヲ載せていると、していることである。
この榛斎の遺命に従い、洪庵は、天保6年春に、「「ホルクスメートキュンデ]子一デルドイツセ・アポテーキ(ク)1を参考に、日本最初のメートル法理論に基づく、尺貫法の換算を完成する。……

これはやはり、『遠西醫方名物考補遺』こそが、日本の出版物中で「瓦蘭馬」、つまり「グラム」に「瓦」字を宛てた最初の用例、ということを裏付けるものだろう。

それにしても十八世紀のオランダ人の皆様ってば、どーして折角十進法でわかりやすいのがウリのメートル法単位を、桁ごとにバラッバラの呼称にお決めになったのだろう???

補遺「凡例」の終いに載っている「藥品秤量」のところをみると、

一千八百十七年 文化四年 和蘭王國中ニ令シテ舊制ノ藥秤ヲ改革ス其制商賈通用封度ポンドノ八分三 即三百七十五瓦蘭馬 ヲ以テ新制藥秤ノ封度トスト云今左ニ新舊藥秤比較ノ表ヲ載ス

として、オランダがメートル法導入の後に、薬品をはかるのに使われる各単位が「ガラムマ」ベースに改訂されたこと、そしてその新旧の換算「ガラムマ」量の一覧が書いてある。ここに「封度ポンド」「穩斯オンス」「達剌屈末ダラクマ」「須屈爾百兒スクルペル」「傑列伊ゲレイン」という、明治以降になっても(漢字音写は別として)薬学で使われていた重さの単位が並んでいるが、これらの呼称はメートル法が入ってくる前から同国で使われていたことがこれでわかる。

とすると、メートル法の各単位呼称にいちいち宛てられている見慣れない名前も、やはり十八世紀以前からオランダで使われていた単位名称を流用したのかもしれないな、という想像はできる。ただ、専門家はその辺について、論文中に何も書いておられないのでよくわからない。

唯一「ガラムマ」だけがメートル法本来の形で、フランス語→オランダ語→日本語と伝わったらしい

当時、外国人との接触は長崎の出島に限られ、そこに出入りする外国人といえばオランダ人+清国人だけだった。だから、オランダ人のもたらした「メートル法」が、本来のフランス式呼称は基数に「キロ」とか「センチ」とかを添えるだけのシンプルな仕組みなのに、オランダ式はひと桁繰り上がったり繰り下がったりするたびに全く違う語になるややこしいローカルヴァージョンらしい、ということを知っていたとしてさえ、敢えてそのまま受け容れる方が合理的、という判断になっても仕方がないことだろう。

事実、「もじもじカフェ」事務局の方に教えていただいたところでは、☝山田も取り上げておられた『計量史研究』Vol.20(1998年)掲載の橋本萬平「西洋度量衡の受容(1)」

https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10631919_po_ART0002609841.pdf?contentNo=1&alternativeNo=

に、5点の現存が確認されている志筑忠雄『度量考』写本のうちでも古手とおもわれる大槻如電旧蔵本に、御用蘭方医の桂川國寧が「gramme」などのメートル単位を書きつけているのがみられる、という記述がある。

この写本は現在静嘉堂文庫が所蔵しているものであるが、元来は大槻家の所蔵であり、「大槻氏印」が大きく捺されているので、大槻本の名が付けられている。巻首の凡例の次の内題の次に「馬場貞由編輯 桂国寧増補」とある。桂国寧は蘭方医としては幕府唯一の奥医師であった桂川家の6代甫賢国寧である。日本人として最初に西洋の学会の会員となった程の学識があった桂川国寧は、医術はいうまでもなく自然科学の各方面に関心を持っていた。その為に西洋度量衡を知る必要があり、志筑忠雄のr度量都を参考にすると共に、そこに不足している項目を書き加えたのがこの写本である。国寧は大槻家と仲がよかったので、彼の写本が大槻家に残ったと考えられる。
この本が前記の長崎本と共に、他の写本より古い時代に書かれたと思われるのは、中に「榕按」とか「三才韻譜曰く」という宇田川榕庵の註が全くない事である。然し現在残っているこの本の写本が、国寧の書いたそのままかどうか疑問がある。というのは中のton(重さ)の説明に『博物新編』を引用している。この本は英国の宣教師Benjamin Hobson が清国の咸豊5年(日本の安政2年一1855)漢文で書いて出版されたものであるが、国寧はそれよりも早く弘化元年(1844)に死去している。従ってこの項は後人の加筆である。
国寧が加えた項目の中で最も注意すべきは、日本で最初にメートル法の単位が紹介されている事である。即ち
meter
centimeter
millimeter
gramme
hectogramme
kilogram
の文字が見られる。又欄外ではあるが
decimeter
decagramme
の書き入れもある。国寧がいつこの補注を書いたのか知らないが、彼は日本でメートル法に注目した最初の人ではなかったかと考えられる。

これが補遺よりも早い、我が国最初の「グラム」の用例なのかどうか、読み直してみてもよくわからなかったのだが、とにかく少なくとも原語のままに書かれているのであって、「グラムマ」や「瓦蘭馬」のように日本文字で音写した例ではなさそうだし、それに版本ではなくて写本だから、今回のテーマでは気にしなくてよさそうだ。

ただし、度量衡それぞれの基数に、共通の「×倍」「×分一」を意味する語をくっつけて桁の上がり下がりを示す、というメートル法単位本来の形が、十八世紀前半のうちには日本人(の一部)にもすでに伝わっていたことを、この写本は教えてくれている。

つけくわえておくと、実は『西洋度量考』にも「metresメトレス」なる、「メートル」とおぼしき単位は載せられているのだ。

ただし、その解説はといえば「新度量名 未詳」……

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0512/bunko08_c0512_p0024.jpg

ん〜、やはり「メートル」法が受容されていた、というには少々心許ない……www

さておき、メートル法が初めて日本に紹介されたとき、オランダ人に教わったお蔭で、ちっとも「メートル」法じゃない単位が束になってもたらされた。結果として、日本人がメートル法を日常的に使うようになるまでの過程で、(まるで親に幼児語を仕込まれた子どもが、後に「いつまでも赤ちゃん言葉じゃおかしいでしょ〜」などと軌道修正を迫られて困惑するように……という喩えは、ちょっと語弊があるかしらん!?)余計な遠回りをさせられる羽目になった、といえなくもないだろうww

ただし、その中で唯一フランス語由来とおもわれる「Gramme」だけは、「グラムマ」「瓦蘭馬」と音写されて、「會爾ヱル」が「メートル」、「カン」が「リツトル」に変わった(というより、本来の形に戻った)りしたのとは対照的に、ほぼそのまま後々まで使われつづけた。

どうしてそうなったのかはわからない。でも、この事実は記憶に刻んでおいてよいことだろうとおもう。

さておしまいに、緒方洪庵が「ガラムマ」の「ガ」に「瓦」字を宛てたのは、何かお手本があったのか? というところをちょっと探ってみようとおもったのだが、気がつけばまたもやだいぶ長くなってしまっているので、続きはまた次回、ということで。

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