「日本 」のことをどうして英語で 「ジャパン 」というのか? という古くからの未決着問題に関連して、『Oxford English Dictionary 』の「Japan 」項に語源として引用されている 、ヴィクトリア朝時代の英領インド帝國俗語事典『Hobson-Jobson 』の「Japan 」項に出てくる 「マレー語経由説 」を追っかけてみるこの連載、今回は編者のユール がその根拠とした Crawfurd 説 とは? というのがテーマ。
実は引用文献一覧 が「LIST OF FULLER TITLES OF BOOKS QUOTED IN THE GLOSSARY. 」として巻頭に載っているので、誰のどの本なのかの特定は楽ちんなのだった。
ちなみに☟前々回ちらと触れた、ジャイルズ の『A Glossary of Reference on Subjects Connected with the Far East 』
の方はここではなく、収載語彙の原典一覧 ☟「NOTE A. — LIST OF GLOSSARIES. 」の19番目に載っている。
で、早速☟1856年 版のジョン・クローファード John Crawfurd 『A Descriptive Dictionary of the Indian Islands & Adjacent Countries 』
の☟「Japan 」項を、かなり長いので少しづつみてみよう。
テキトー訳だからこまかいところは多少間違っているかもしれないが、おおよその文意はおつかみいただけるかとおもう。
マレー語から採り入れられた「Japan」の原形 John George Bartholomew "The handy shilling atlas of the world" (1905年?新訂版 G. Newnes) JAPAN . In Malay and Javanese Jâpon , which is nearly our own old orthegraphy, Japon .
「JAPAN . マレー語 ・ジャワ語 では「Jâpon 」という。これは英語の古い音写である「Japon 」に近い。」英語版Wikipedia 「Names of Japan 」項の「Contemporary Non-CJK names」
をみると、現代ではそれぞれ「Malay: جڤون (Jepun) 」「Indonesian: Jepang 」となっているから、両方とも同じ語が使われていた当時とは、わずか100年そこそこの間に変わってしまっているようだ。
The name is, no doubt, taken from that of the principal island in the Japanese language, Nipon , and in Chinese Jipun , the corruptions being taken by the natives of the Archipelago from the Portuguese .
「この名は疑いもなく、日本の本島を指す日本語「Nipon 」、そして華語の「Jipun 」に由来する語をポルトガル人がマレーの現地人から 聴きとって音写した際に訛ったものである。」
ここで『Hobson-Jobson 』の「Japan 」項にかかれていたことを想い出して「あれ!? 」とおもうのは、ユールが 「Japan 」の元となったマレー語としてクローファードが挙げている 、と指摘しておられた「Jăpung 」とか「Jăpang 」 とかはここには出てこず、そのかわりに ジャワ語とも共通する「Jâpon 」という語が挙がっている 、ということだ。これはいったい、どこでどうなった結果の喰い違いなのか……???
念のため、引用文献目録の「Crawfurd, John 」2番目に挙げられている「Malay Dictionary, A Grammer and Dict. of Malay Language.」という1854年刊の2冊組にもあたってみることにした。☟『A grammar and dictionary of the Malay language with a preliminary dissertation 』というのがそれらしい。
巻1がマレー語についての解説、巻2が語彙集という構成なのだが、2の方に「Japan 」が出てこないか検索してみると、
Jâpun . Japan; Japanese.
……ということで、『Hobson-Jobson 』1886年 版
p. 344 の「……which Crawfurd gives as Jăpung and Jăpang .」というくだりは、実際には「……which Crawfurd gives as Jâpun and Jâpon .」となるのが正解らしい……な〜んだかなぁ。
そこまで求めるのはもちろん酷だが、 OED も『Hobson-Jobson 』の引用原典までは確認しておられなかったことが、これでわかってしまう。
とにかくクローファード が挙げておられる語のシッポが「-ng」ではなくて「-n」 なのは、より英語に近い形 だからすんなり頭に入ってくる説だ。
なお、『Hobson-Jobson 』引用文献リストにあるクローファード の残りのふたつの資料は、それぞれシャム+コーチシナとビルマのアヴァについてのもののようなので、チェックしないでよいだろう、ということにしちゃう。
それから、☟前回の記事
を書いたあとで見つけたのでここにメモしておくのだけれども、トメ・ピレス Tomé Pires が1515年 に著した『Suma Oriental (東洋のあらまし)』という本に、日本を指す 「Jampon 」という語が出てくる ようだ。
またひとつ、「Japan 」の祖型ヴァリエーション が増えてしまったw
謎の民「Goré」と謎の島「Perioco」 John George Bartholomew "The handy shilling atlas of the world" (1905年?新訂版 G. Newnes) 「Japan 」の語源 についてはこれで終いのようだが、続きを読み進めよう。
The Japanese empire is said to have been discovered by the Portuguese, in 1542, and then only by the accident of a trading junk, manned and owned by Portuguese, having been driven by a storm on its coast. Upwards of thirty years, therefore, had elapsed from the conquest of Malacca, and sixteen from their first reaching China, before they had made the discovery.
「ポルトガル人が日本帝国を発見したのは1542年とされているが、それは彼らが買い入れて乗り込んでいた交易用の帆船が嵐に遭い、たまたまその岸に流れ着いたからである。それはポルトガル人がマラッカを征服してから30年、はじめて支那の地に到達してから16年ののちのことであった。」
Yet it is very plainly indicated by Marco Polo , and on the arrival of the Portuguese in Malacca, Japanese junks seem to have frequented it. The Japanese are not, indeed, named by De Barros , as among the strangers that resorted to this port, but they are so in the Commentaries of Alboquerque , written by his son , who thus describes them under the name of Goré .
「しかし、マルコ・ポーロ がはっきりと書きのこし、またポルトガル人自身が現地で実際目にしていたように、日本人の交易船はマラッカへ頻繁に訪れていた。たしかにデ・バロス は、マラッカの港に来航していた外国人のなかに日本人がいたとは書いていない。しかし、デ・アルブケルケ総督の子息が記した 『アルブケルケ実録 』には、「Goré 」という名で 彼らのことが書かれているのである。」
"The Gorés (according to the information which Alfonso Alboquelque received when he conquered Malacca) stated that their country was a continent, but by the common voice, it is an island, from which there come, yearly, to Malacca, two or three ships. The merchandise which they bring are raw and wrought silks, brocades, porcelain, a large quantity of wheat, copper, alum, and much gold in ingots (ladrillos), marked by their king's stamp. It is not known whether these ingots be the money of the country, or whether the stamp be attached to indecate that their exportation is prohibited, for the Gorés are men of little speech, and will render an account of their country to no one. The gold is from an island near them, called Perioco , which abounds with it.
ここから、ブラス・デ・アルブケルケ Braz de Albuquelque『大アルフォンソ・デ・アルブケルケ実録 』よりの引用となる。
「『Goré 人 は(アルフォンソ・デ・アルブケルケがマラッカ征服の際に聞き及んだ話によれば)、その国は大陸にあるとするが、ただし世につたわるところからすれば島であるという。例年そこから二、三隻の船がマラッカへ来航する。その積み荷は生糸、絹織物、緞子、磁器、山ほどの小麦、銅、明礬、そして Goré 王の刻印のあるたくさんの金塊(煉瓦状のもの)である。その金塊は、はたしてその国の通貨であるのか、またその刻印は輸出品として許されたことを示す印なのかどうかは、かれら Goré 人 が寡黙で、しかも自らの国のことについて語ろうとしないためわからない。その金は、 かの国からほど近くにある Perioco という島 で豊富に採れるものだという。」
The country of these Gorés, they themselves call Lequea. They are a fair people. Their garment is like a baladrois without a hood. They carry long swords of the form of the cimeters of the Turks, but a little narrower in the blade, and daggers of two palms long. They are bold men, to be feared on land. At the ports they come to, they do not unload their whole cargoes at once, but by little and little. They speak the truth, and desire that it be spoken to them; and if any merchant of Malacca departs from his word, they forthwith arrest him.
「Goré 人の国のことを、かれら自身は 「Lequea 」と呼ぶ。 誠実な人々である。着ているものは外套コート に似ているが、ただし頭巾フード はついていない。腰にはトルコの彎刀のようだが、それよりももう少し刃幅の狭い長刀と、両の手のひらを並べたほどの長さの短刀を差していて、その精悍さで陸の上ではおそれられている。かれらは積み荷を少しづつ運びおろし、一度にすべておろすことはしない。嘘をつくことを嫌い、相手にもそれを許さない。それゆえ、もしマラッカの商人がだまそうものならば、否応なくかれらに縛り上げられてしまうだろう。」
They strive to have their ships dispatched in a short time, and do not dwell in foreign lands, for they are not men that love to go beyond their own. They leave their country in the month of January for Malacca, and return to it in August and September." — Commentarios do Grande Alfons D'Alboquerque, collegido por seu filho das cartas que elle escrivia al muito poderoso Rey Don Manuel O primiero deste nome. Cap. 17, p. 353. Lisboa: 1576.(引用者註:引用文献の原題を DeepL にほうり込んでみると「Commentaries of the Great Alfons D'Alboquerque, collected by his son from the letters that he wrote to the very powerful King Don Manuel The first of this name.」となる)
「かれらは努めてなるべく早く船をマラッカから引き揚げようとし、外国の土地に居座ることはない。それは自らの領分をたいせつにし、そこから踏み出したがらない性分だからである。例年一月にマラッカに向けて自国を発ち、八月から九月に帰国の途につく。』—『大アルフォンソ・デ・アルブケルケ実録——その子よりマヌエル一世大王宛ての書簡集』第十七章 p. 353 1576年於リスボン刊」
Of the origin or meaning of the word Goré, as applied to the Japanese , I can offer no conjecture, but it was probably the name, from whatever source derived, which the Malays gave them; but that of Liquea which the Javanese themselves gave to their country , is probably derived from the Li-u-ki-u or Loochoo Islands , the nearest portion of the Japanese empire to the Asiatic Archipelago. The articles which composed the cargos which the Japanese brought to Malacca, their stamped gold pieces which still exist, and the wheat which no other country to the east of the Archipelago and communicating easily with it produces, seem clearly enough to indentify the Gorés with the Japanese .
「「Goré 」という 「日本人 」をあらわすとみられる語 については、その語源も意味も示すことができないが、その名が何に由来するものであれ、マレー人が名づけたものであろう。しかしジャワ人がかれらの国を「Liquea 」と呼んだのは、おそらく「Li-u-ki-u 」あるいは 「Loochoo 」と呼ばれる島々 の名に由来するものとおもわれるが、かのアジアの島々においてその地は日本帝国に隣りあって位置するから、混同したのであろう。日本人が交易品をマラッカへ持ち込んでいたことへの言及がこの記事にはあり、刻印の捺された金塊は今もなお当地に遺されている。そして東インドの海峡の東側からマラッカを目指してくる、当地と行き来のしやすい諸国のうち、小麦を積んだ船を送り出す唯一の国であったことからしても、「Goré 人 」は 「日本人 」と考えるに足るのはあきらかとおもわれる 。」
この大小二本差しの「Goré 人 」については、九州大学 大学院人文科学研究院紀要『史淵 』第百五十輯に掲載された☟中島なかじま 楽章がくしよう 「ゴーレス再考 」
のp. 70(PDF5ページ目)「一 ゴーレス論争の進展とその論点 」を読むと、二十世紀のはじめごろから我が国で「日本人のことなのではないか 」という説が出はじめ、また一部には「高麗」の訛りなのでは、という説も出たが、昭和に入って「琉球人なのではないか 」と唱える説があらわれた、という。その一方で日本人説の支持も根強く、その語源についてもさまざまな由来が考え出されたが、昭和六年(1931年)に琉球王朝の外交文書集『歷代寶案 』という書物
が「発見」されたことで琉球人とマラッカなどの東南アジア諸国人との盛んな交流があったことがわかった一方、日本人の渡航記録が見出されず、琉球人説が有力となっていったという。
☝のデジタルアーカイブで、「満剌加」と入れて十五世紀の資料が載っている訳注本を検索してみると、第一冊が1件、第二冊が25件出てくる。例えば☟「1-39-04 満剌加国王より琉球国王あて、返礼の書簡 (一四六七、三、二〇・成化三年)」
ただし「ゴーレス 」という語自体の由来については、今なお議論が続いているようだ。中島 は☝の論文でアラビア語・ポルトガル語・イタリア語・スペイン語のしられている資料を年代順に追いつつ、あきらかに琉球人を指す「レキオス 」との関係もふくめて詳細に検証し、どのように交易相手の外国人による琉球人の呼び名が変わってきたのかを整理しておられる。
アラビア語資料に出てくる「アル・グール(al-Ghūr)」という島について、「リキューの島(Jazīrat Likiyū)」とも呼ばれていることを示すものが確認されているそうだ。先に提唱された「高麗」説、また近年新たに登場した、モルッカ諸島では剣のことを「pagan gole」ということから、そこからきているのではないか、とする説もあるそうだが、このアラビア語について次のような語源説があるという。
一方で筆者は、従来ほとんど顧みられていない、アル・グール(al-Ghūr)を、アラビア語のアル・ガウル(al-Ghaur /Ghawr)の転訛と説く前嶋信次説 にも、再検討の価値があるのではないかと考えている。前嶋氏によれば、ghaur とは、「低地に下る」・「(水などが)地中に消える」ことを意味する ghāra という動詞から派生し、「底」・「低地」・「地中に消えるもの(水)」を意味するという。アラビア文字では母音を表記しないので、ghaur と Ghūr のつづりは同じであり、Gh + W + R という三つの子音で表記されるが、特に ghaur であることを明示するためには、子音 Gh の上に、母音 a の附加を示す註音符号(ファトハ)を書きくわえる。 イブン・マージドは『航海学の基礎に関する有益情報』において、アラビア半島西部の、ヒジャーズ(Ḥijāz)の山脈と紅海とのあいだに南北につらなる低地を、アル・ガウル(al-Ghaur)と称しており、「すべて高い場所をナジュド(Najd)とよび、すべて落ちくぼんでいる場所をティハーマ(Tihāmah)やガウルとよぶ」と説明している。また十四世紀前半のイブン・バットゥータ(Ibn Baṭṭūṭa)も、ヨルダンからシリアにかけて南北にのびる地溝帯を、やはりガウルと称し、「ガウルは、いくつかの高地の[連なる]山間の渓谷である」と述べている。 このようにガウルとは、帯状につらなる低地を意味しており、前嶋氏は中国史料にあらわれる、彭湖諸島と台湾のあいだにある、海水が急激に落ちこむ場所とされる「落漈らくさい 」が、アラビア語でアル・ガウル al-Ghaur と表現されたと推定 している。そしてアル・ガウル al-Ghaur とつづりが同じアル・グール(al-Ghūr)が、「落漈」の附近にあると考えられた琉球の名称に転化した と考えるのである。
これは結構説得力があるようにおもえる。しかし、あきらかな証左となる資料が今のところ見つかってはいないため、「現時点ではどの見解にも決定的な論拠はなく、語源を確定することは難しい」と慎重な結論を出しておられるのは、当然とはいえ研究者として誠実なご姿勢とおもう。
今の世の中、ひと言でずばり「正解」をバーンと打ち出すことがもとめられ勝ちのようにおもえるが、わからないことは「わからない」といえることが大事 だ。それに、まだわからないことがあるからこそ、いろいろ調べたり考えたりしてたのしむ余地があろうというものだ 。なんでもかんでもすぐにわかってしまったらつまらない。
さてもうひとつ、『大アルフォンソ・デ・アルブケルケ実録 』引用のなかに「Perioco 」という、金が豊富に採れる島が出てくる。
この名を目にしたとき、☝トメ・ピレス 『Suma Oriental 』英訳版の「Jampon 」脚註にある「On the possible reprisentation of Japan on Rodrigues' map (fol. 41)」というのがどんなのだろう、とおもって調べたら、「Ylha parpoquo 」というくの字形の島が東支那海あたりに描かれていて、それが本州の形を彷彿とさせた(どの本をみたのかは、今ちょっとわからない)のだが、「あ、あれと字面が似ている☆」という考えが、アタマのなかにぽんと浮かんだ。「ペリオコ島 」と「パルポコ島 」、なんだか可愛らしい音だが、やはりふたつとも似た感じだ。
中島 がおなじく『史淵 』第百五十二輯にお載せになった「最初のポルトガル系東アジア図 : フランシスコ・ロドリゲスの地図」
をみてみたところ、「五 ロドリゲスの東アジア地図(二)——広州と東アジア海域——」章のなかの p. 69 (PDF33ページ目)「(4)中国北部沿岸(第四十一葉)」に、その図(p. 70)とともにこの島について、次のように解説がされていた。
…… 一方、地図の下部には、横長でゆるやかなV 字状をなす島が描かれており、次のような注記がある。「パルポコ島 。ここでは多くの中国の品々を見いだすことができる」(Ylha parpoquo Nesta Achares muyta coussa da china)。この「パルポコ島」は、位置的には東シナ海の北部、中国の東方近海に位置することになる。 なおアフォンソ・デ・アルブケルケの伝記(一五五七年完成)には、琉球人ゴーレス がマラッカに輸出していた黄金について、「この黄金は彼らの国の近くにある島で産する。そこはペリオコ Perioco と呼ばれ、黄金を豊富に産する」という記事がある。またポルトガルのペドロ・レイネル Pedro Reinel、ロポ・オーメン Lopo Homen らが一五一九年に作成した世界図では、アジアとアメリカの北端を地続きとし、太平洋を逆U字形の湾状に描いているが、その北部にパリオコ島 Parioco Insvla という島がみえる。 これらの地図や史料から、ペリオコ(パルポコ・パリオコ)島は中国の東方海上にあり、中国の物産が運ばれ、琉球に黄金を輸出している地 ということになる。このため早くから、ペリオコ島とは日本を指すとみなされてきた 。 ……ペリオコ島は、やはり 中国の東方海上に位置し、黄金の産地でもあった、日本を指すと考えるべき だろう。
これもたいそう腑に落ちるお話におもえる。とすれば、十六世紀の前半 、マレー語の「Jâpun 」「Jâpon 」を移入する前のポルトガル人は、まだ見ぬ日本のことを「Parpoquo 」「Perioco 」「Parioco 」と呼んでいた、ということになる。こうした名を載せた資料で「Japan 」に似た語をいくら探したところで、これではみつかるはずがないww
なお、このかわいい別名の語源については、あまりに資料がなく、またぱっとおもいつくような似た語もみつからないためだろう、追求はされていないようだ。
ただ、もしこれも華語の音写だったとすれば、「Parpoquo」のシッポ「-quo」は「〜國」なのかも? などと考えたりはする。
クローファードの日本解説 John George Bartholomew "The handy shilling atlas of the world" (1905年?新訂版 G. Newnes) 『A Descriptive Dictionary of the Indian Islands & Adjacent Countries 』の「Japan 」項についてみてきたが、終いのところには当時にいたるまでの日本についての解説が載っている。
The Spanish historiana of the Philippines also inform us that previous to the discovery and conquest of these islands they were frequented by the Japanese for the purposes of trade. But the intercourse of this people with the Archipelago was, probably, inconsiderable, until the establishment of Portuguese and Spanish influence in Japan, and from that time, for the best part of a century, it went on with considerable activity. Japanese junks visited Manilla, Jacatra, and Bantam, and the people themselves migrated and settled in various parts of the Archipelago, as do now the Chinese, and they were employed, as the Chinese never were, as soldiers at the European establishments.
「以前フィリピンのスペイン人歴史家が語ったところによれば、彼らが同地を発見・征服するよりも前、日本人がさかんに交易のためおとずれていたという。しかしポルトガル人やスペイン人の入殖者たちが、自ら日本へと到達し、以来一世紀の長きにもわたる関係を築くに至るよりも前に、かの島々の民となんらかの接触をもつ機会があったとは考えにくい。日本人の帆掛け船がマニラやジャカトラ、そしてバンタムに寄港し、今日の華人のように東インドの島々のあちらこちらに移民として定着していった。そしてヨーロッパ人入殖者の傭兵にもなったことは、華人とは決定的に異なる点である。」
ご存知かもしれないが、今日では「Jacatra」は「Jakarta」、「Bantam」は「Banten」と地名が変わっている(少なくとも前者は想像がつくよね)。
The island of Luzon, in the Philippines, seems to have been the chief place to which they resorted, and here their numbers appear to have been so considerable that they rose twice in insurrection against the Spanish government. Then came in 1637 the decree of the Japanese government which, for now above two centuries, has nearly isolated Japan from the rest of the world. Its trade and migration ceased at once, and there is now not a vestige to show that the Japanese ever existed in the Archipelago. The Spaniards, indeed, allege that one of the wild races of Luzon, the Ifugaos, are the mixed descendants of the Japanese; but this is a mere hypothesis for which there seems no good foundation.
フィリピンにおいては主にルソン島に、日本人移民の多くが住みついていたようであり、スペイン人の統治に対して二度も叛乱を起こしている。その後1637年にいたり、日本の統治者は諸外国に対する門戸をほぼ閉じてしまい、その鎖国政策はかれこれ二百年を超えて今日にまでつづいている。交易船も移民も潮が退くように消え失せてしまい、今や東インドの島々のどこにも日本人の痕跡はみられなくなっている。スペイン人は、ルソン島の住民のうちでも最も近代化されていない民族のひとつ、イフガオ族には日本人の血が流れている、と主張している。しかし、それを裏付ける確かなものは何もなく、信ずるに足らぬ説といえよう。」
The whole external intercourse of the Japanese empire, with a computed population of 25,000,000, is limited to that of the Dutch of Batavia, and of the Chinese of the province of Chekiang. The trade of the first is now restricted to a single ship, not allowed to export any other staple commodities than camphor and copper, while the export and import cargos are not to exceed the sum of about 80,000l. in value. The trade of the Chinese is much more valuable, for their junks amount to from 10 to 12, while their imports and exports, less restricted as to commodities, may each amount to the value of about 250,000l. At length, in 1854, through the enterprise of the Americans, intercourse with the nations of Europe and America has been so far relaxed, as to allow their ships to wood, water, and refresh, with an express prohibition, however, of carrying on trade.
「二千五百万もの人口を抱える日本帝国の対外的なやり取りは、バタヴィアのオランダ人、および浙江地方の華人相手に限られている。今や初回の取り引きについては入港を認められる船は一隻限り、樟脳と銅を除く主だった品は取り引き禁止、輸出入品を合わせた取り引き額はしめておよそ八万ポンドを超えてはならないことになっている。華人はこれよりもかなり優遇されており、来航船は十〜十二隻が認められ、交易品の制限も緩く、取り引き高は二十五万ポンドほどにも達する。1854年のアメリカ人による苦心の交渉の末、交易についてはこれまで同様禁令を緩めるわけにはいかない、とした上でではあったが、薪炭と水の補給、そして碇泊しての乗組員の休息を認める譲歩が引き出され、ヨーロッパやアメリカに対して長きにわたり閉め切られていた日本の扉が、それなりに開くにいたった。」
刊行当時、なかなか受け容れてくれない日本市場に興味をお持ちのこの本の読者にとっては、この項で一番大事なのはここの部分だったかもしれない。「Japan 」の「マレー語経由説 」を追っている者にしてみれば、読んでみてまぁおもしろいことはおもしろいけれども、何の参考にもならない内容ではあるww
次回は、マレー語 「Jâpun 」「Jâpon 」の元となった華語が、いったいどのようにして十六世紀のマラッカ王国へ伝わったのか 探ってみることにする。