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〇〇はどうするんですか?と言うボク

4歳の彼がYouTubeを観ながら、
「〇〇はどうするんですかー?」とひとりで話している。

それ以外にも、
「これどうなるんだろう?」
「〇〇なりそうだよ」
「でも、〇〇はどうするんですか?」
「そうしたんかーい」
「なんでそうするの?」
といった言葉を放ちながらYouTubeを楽しんでいる。

いつもは何も引っかからない普通の光景だけれど、今日はなぜか気になったものだから、それらの言葉を少し考えてみることにした。


するとみえてきたのは、これらの言葉には「疑問」と「仮説」が含まれているという点。

「なぜ?」とか「どうして?」「こうなりそう」などのことを指し、
もしかすると物事を「仮説・疑問思考」で捉えているのかもしれないなと思った。

「こうなるんじゃない?」と予測し、
「そうなるんかい」と予測とは違った結果になる。
すると「なぜそうなるんだろう?」と問いが立つ。
こんな繰り返しが起きているんだろうと思う。

変化に対し興味が生み出されている状態で、これらを表現する簡単な言葉は「好奇心」という言葉になるのかもしれない。

「子どもは好奇心があるから」

「子どもは何にでも興味を持つから」

そういった言葉はよく耳にする。

けれど、大人が「好奇心」を連呼するシチュエーションになんだか違和感を感じる。

その違和感をうまく言語化はできないのだけれど。

大人が「子どもは好奇心があるから」と連呼しているシーンを。

そこには「なぜ子どもは興味を持つのか?」という問いや仮説がなく、
便利な言葉としてただ使っているようにもとれる。

「思考停止状態」というと言い過ぎかもしれないが、
私自身も大人になっていく過程で、便利な言葉を自分に都合の解釈で済ましてきたように思う。

そうなると、自分が理解できる範囲でしか物事を捉えようとしないので、もちろん思考の拡張は起こらない。

知らないことがたくさんあることにフタをしたような状態ではないか。

知らないことを知らないのだから(無知の知)、知ることにベクトルが向くはずもないだろうと。

なんだかモヤモヤは消えないけれど、知らないことを知る意識は持っておきたいなと思う。

そういえば、積読になったままの本があったので読んでみようと思う。
以前にAmazonでポチった時にも、「好奇心」に対する違和感を感じていたのかもしれないなと。

読み進めながら、自分なりの解釈・理解をメモに残していこうかなと思う。




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