短編小説 | 指揮者
(1)
「そこのチェロがおかしい」
私は名指しされた。チェロを弾いているのは私だけではない。なのにその指揮者は瞬時に私のミスに気がついた。たしかに自分でもミスしてしまったと思ったのだが、大きなミスではなかったから、私は驚いてしまった。
「申し訳ないことです。すみません」
「いや、謝ることはないよ。君はいつも正確だから、些細なミスが気になってしまったのだ。では、ちょうどお昼も近いから、この辺で一休みすることにしよう」
そういい残して、指揮者はすぐに舞台をおり、昼食を食べに行ってしまった。
「それにしても、すごい耳の持ち主だね。些細な音の違いもすべて聞き分けてしまうのだから」
「本当にそうですね。いつも驚かされます。ピンポイントで誰が間違ったのか把握できるのだから。天才が天才であるゆえんだね」
「しかし、これだけ大勢のオーケストラがいるのにね。聖徳太子も青ざめるだろうな」
(2)
あっという間に昼休みが終わった。すぐにまた、午後の厳しいリハーサルが始まった。
指揮者は私たちのほうを向いてタクトを振り始めた。しかし、目はほとんど閉じたままである。
「おい、そこのフルートの君。いま半音ずれてしまったね。また、最初からやり直すぞ!」
こんな調子で今日のリハーサルはとりあえず終わった。
私はリハーサル以外の時間に、恐れおおくて指揮者と話したことがなかった。しかし、今日は、なぜあれだけたくさんいる奏者の中からミスしてしまった者を特定できるのか?、という謎について、どうしても訊きたくなった。
(3)
「あの、すみません。ちょっとお伺いしたいのですが」
「何だね?君はチェロの…」
「はい、そうです。午前中はすみませんでした。今日はどうしても先生にお伺いしたいことがありまして」
「どうして、間違った者がわかるのか?、ということだろう?」
「はい、その通りです。教えていただけますか?」
(4)
「まぁ、聞いてもあまり大したことは言えないよ。でも隠すほどのことでもないから教えてあげよう」
指揮者はゆっくりと話し始めた。
「君は僕がオーケストラのすべての音を聞いていると思っているのかな?」
「はい」
「そんなことが可能だと君は思うかい?」
「私には不可能ですが、先生には可能なのだと思っています」
「残念ながら、僕にも聞き分けられるのは1つの音だけさ」
「ですが先生はいつもピンポイントでミスを的確に指摘なさいますよね?」
「それはそうだな。しかし、それはすべての音を聞き分けているわけではなく、1つの音しか聞いていないから可能なのだよ」
1つの音?
なんのことだろう?
「と、申しますと」
「僕にはね、理想の音が1つあるだけなのだ。この曲は、このように演奏すべきだという理想のハーモニーが常に頭の中を流れている。そして、僕はその頭に鳴り響くハーモニーと、実際に演奏されている音が一致している間はすべて聞き流している。しかし、僕の頭の中のハーモニーと異なる不協和音が聞こえると、無性に気になるのだ」
「そういうことでしたか。目からうろこです。1つの1つの音を聞くのではなく、理想の1つの音を頭に流し、不一致を見つけるということですか」
「聞いてしまえば、簡単なことだろ。今日は君の熱意に押されて話してしまったが、みんなには内緒にしておいてくれ」