短編 | 語学と文学(前)
語学と文学。どちらも言葉に関係する。そして、どちらにも「文章のうまい・下手」はつきまとう。
だが、語学的にうまいなと思う文章と、文学的にうまいなと思う文章は、多少異なる。
文学的にうまさを感じる文章とは、たとえテーマがありふれた日常のことであったとしても、今までに聞いたことがないような言葉の組み合わせで編まれた文章であったり、あるいは、まったく見たことも聞いたこともなかったような表現を含む文章だ。
テーマそのものが陳腐であったとしても、「ハッ」するような描写に、私は文学的なうまさを感じる。
それに対して、語学的にうまさを感じる文章とは、日常のことを描写するならば、日常の言葉になるべく近い表現を用いた文章である。妙なレトリックを駆使した文章よりも、普段の言葉遣いのままの文章のほうが良い。
あえて言えば、文学的にうまい文章とは非凡さが際立つ文章であり、語学的にうまい文章とは、平凡であれば平凡であるほど良いと言えよう。
だが、文学的な文章といえども、ひねりにひねった文章ならば誰にも理解できない。少なくとも読者は、読み解くのに苦労する。その一方で、日常的な会話といえども、ありふれた言葉遣いばかりしていては、いざというときに心に響かない。
私は文学的な文章をこれまであまり書いてはいないが、語学(主に英語)は、ずっと中学生の頃から、ほぼ毎日続けている。
今は試験勉強はまったくしていないが、ブログでは結構な量の英作文をしている。
いくら書いても、うまくなっているという実感はない。それどころか、書けば書くほど下手になっているのではないか?、と思うことのほうが多い。
「だが、しかし」と、私は自分を慰めることがある。
「君の英語はね、どんどん陳腐化してるんだよね。みんなが使いそうな言葉を選んでいる結果だから、悪くないと思うよ」
「そうかな?語学やってるんだから、少しでも文豪に近づきたいのだが」
「まぁ、欲張るなって。英語なんて所詮借り物なんだから、みんながよく使う言葉をそのまま使ってりゃいいんだって」
「そりゃそうなんだけどね」
たまに日本語で小説を書くとき、日本語は、英語とは異なり借り物の言語ではない。私にとって日本語は母語だから、もうちょっと文学的な表現を駆使してみたい、という誘惑に駆られる。
しかし、レトリックを駆使したような文章は、日本語といえどもままならない。
自分で書いた小説を読み直す。通俗的だな、と思う。本当はね、純文学的な文章で小説を書けたら良いのだが、私には無理みたい。
いい文章って、なんなんだろうね?
非凡な文章を求めながら、私の書く文章には文学性がまったくない。
小説を書くのは、もうやめようかな?
ねぇ、神宮寺、君は今も小説を書きつづけているかい?
僕は牛丼屋のバイトをつづけながら、悩んでいるよ。
君の意見を聞いてみたいな。
突然の手紙ですまなかったね。
2024年11月7日
三葉亭八起
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記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします