表現の自由
芦部信喜(著)「憲法(新版補訂版)」(岩波書店、1999年)を参考に「表現の自由」について考えてみたい。
その中でも、noteを継続する上で切実な問題である「わいせつ文書の頒布・販売罪」(刑法175条)および憲法で保障されている「精神的自由権」に焦点を絞る。
この記事は、本当は書く予定になかったものだ。しかし、最近のnoteの取り締まりは厳しい。事前に連絡なく、投稿した記事が削除されるケースが増えているようだ。私もこの1ヶ月間に、2つの記事が削除された。
記事が削除されると、事後的に次のようなものが届く。
「ご利用規約違反が確認された」。「利用規約」を確認して、云々とあるが、自慢ではないが、今までに30、40回くらいは読んでいると思う。
昨日の記事(↓)が、投稿後30分も経たない頃に「削除」された。
文章自体は、どこをどう読んでも「規約」に抵触するとは思えなかったので、本文は最初に投稿したものに何も手を加えていない。イラストを「空」の写真にさしかえて再投稿した。
私も「わいせつ」に抵触するか、しないかということには気をつかっていた。女性の裸体を描くときには、「陰部」および「陰毛」は描かないようにしている。
昨日のイラストは、胸は露出させたが、パンティはきちんとはいていた。「ガーターベルト」を描いたのが悪かったのか、おっぱいを描いたことが悪かったのか判然としない。
私だけに限らず、おっぱいのイラストは他にもあるから、「ガーターベルト」がいけなかったのだろうか?
そこらへんを丁寧に説明を求めたいところだが、どうなのだろう?
しかし、ガーターベルトだけならば、削除するほどではないように私には思えるので、イラストを載せておく。
「胸+ガーターベルト」が「アウト」なのだろう。柔道の「合わせ一本」みたいな。それはともかく、本論に入ろう。
前掲書の「性表現」に関する記述を引用してみる。
性表現・名誉毀損的表現は、わいせつ文書の頒布・販売罪とか名誉毀損罪が自然犯として刑法に定められているので、従来は、憲法で保障された表現の範囲に属さないと考えられてきた。(中略)
性表現の規制については、刑法175条のわいせつ文書の頒布・販売罪に関し、最高裁は、チャタレイ事件の判決以来、一貫して合憲としているが、その後、わいせつ概念を明確化しようとする努力がみられる。
(前掲書p170)
この後に、「性表現判決」として、「チャタレイ事件」「悪徳の栄え事件」「四畳半襖の下張事件」が掲載されているが、最高裁による「わいせつ文書」の定義が示された「チャタレイ事件」の記述を引用する。
D.H.ロレンスの「チャタレイ夫人の恋人」の翻訳者と出版社社長が刑法175条違反で起訴された事件。
最高裁は、「わいせつ文書」とは
①徒らに性欲を興奮または刺激せしめ、
②普通人の正常な性的羞恥心を害し、
③善良な性的道義観念に反するもの、
と定義したうえ、
刑法175条は、性的秩序を守り、最小限度の性道徳を維持するという公共の福祉のための制限であり、合憲であると判示した
(最大判昭和32・3・13刑集11巻3号997頁)(前掲書p171)
その他の判例を見ても、(私は法律の専門家ではないが)ここに挙げた3つの要件が、判断基準になっているようである。
「チャタレイ夫人の恋人」なんて、今ではふつうの文学作品として、文庫本で誰でも読むことができるものである。
また、私の記憶では、宮沢りえさん「サンタフェ」以前は、いわゆる「ヘアヌード」はNGだったが、「サンタフェ」発売以降は、なし崩し的にヘアヌードの雑誌が増えた。
今では、写真ではなくても、アニメでも過激なものはある。
子どもには、見せたくないな、と思うものはあるし、基準をハッキリと示すというのも難しいとは思う。
しかしながら、ドラマの中に登場する誘拐犯や銀行強盗まで、逃亡するときに、きちんとシートベルトしなくてはいけない!、ということになると、さすがに規制しすぎではないか、と思う。
「陰部も顔も描いていないイラスト」を削除した理由くらいはきちんと説明してほしい。
こういうことを曖昧にしておくと、「殺人」はいけないから、ドストエフスキーの「罪と罰」は読んではならない、なんてなりそうで、非常に恐ろしく思う。