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小説はすべて推理小説だ!! | 創作大賞感想
小説家でもないのに、「『いい小説』とは何か?」「どうやったらいい『いい小説』が書けるのか?」と考えることがある。
以前、記事に書いたこと(↓)があるが、それは「noteというSNSで作品を発表するならば」という前提で書いた。
noteの記事としての小説の書き方はこちら(↓)
現在、noteでは「創作大賞2023」という応募があり、毎日、数多くの力作が投稿されている。
「オールカテゴリ部門」以外は、エッセイにしろ、小説にしろ、20000字以上書かなくてはならないから、普段の記事とは別な「書き方」が求められている。
「創作大賞において、具体的にどうすればよいか?」「どうやったら受賞できるか?」ということは、私には言えないが、今回の記事では、「『いい小説』とはなんだろう?」ということを考えてみたい。
いい小説の条件①
説明するな!
森鷗外「百物語」に次のような一節がある。
小説に説明をしてはならないのだそうだが、自惚(うぬぼれ)は誰にもあるもので、この話でも万一ヨオロッパのどの国かの語(ことば)に翻訳せられて、世界の文学の仲間入をするような事があった時、余所の読者に分からないだろうかと、作者は途方もない考を出して、行きなり説明を以てこの小説を書きはじめる。
『山椒大夫・高瀬舟』(新潮文庫)
p.70
「百物語」で鷗外は、説明しているのだが、基本的には小説とは「説明しない」ものである。
これだけだとよく分からないと思われるので、次の記事を読んでほしい(読まなくても、説明するが😃)。
ある写真でも、脳裏に浮かぶ情景でもいいのだが、すべてのことを書き尽くして説明することはNGだ。
自分の描きたい中心となるべきものにフォーカスしなければならない。
「女の子と男の子がいて、写真を撮ろうとしていて云々」というような「客観的な説明」はしない。
だから、女の子を主人公として考えて、その場面が小説としてどういう意味を持つのかということを描写する場合と、男の子を主人公と考える場合の描写は全く異なるだろう。
あるいは、物語と全く関係ないことならば、バッサリとカットしたほうが、無駄がなくてよい。
素人(私も含めてだが)は、「二万字」と言われたら、とりあえず、何とか二万字のますめを埋めようとして、余計な説明を書き込む習性がある。要らないものは要らないから、バッサリとカットしよう。
いい小説の条件②
無駄な描写がない!
「無駄な描写がない!」ということを説明する前に、夏目漱石(著)「坑夫」の冒頭を読んでほしい。
さっきから松原を通ってるんだが、松原と云うものは絵で見たよりも余っ程長いんだ。何時まで行っても松ばかり生えていて一向要領を得ない。此方(こっち)がいくら歩行たって(あるいたって)松の方で発展してくれなければ駄目なことだ。いっそ始めから突っ立ったまま松と睨めっこ(にらめっこ)をしている方が増しだ。
新潮文庫p.5
はじめてこの小説を読んだとき、この冒頭の部分はストーリーとは直接関係がなく無駄だと感じた。
しかし、少しまた読んでいくと、次のような描写がある。
「そうさ」
と幾分かさげすむ様に聞き流して、裏へ出て行った。この「そうさ」が妙に気になって、ことによると、まだその後があるかも知れないと思った所為(せい)か、何気なく後姿(うしろかげ)を見送っていると、大きな黒松の根方の処へ行って、立小便をし始めたから、急に顔を背けて、どてらの方を向いた。
(新潮文庫)、pp.25-26
ここまで読んだときに、この「坑夫」といういう小説では「松」が主人公にとっての「日常性」を象徴しているのではないか?、と考えた。
連続する松の木、立ち小便の対象になる松の木。
この物語において、松が現れるときは、主人公にとって「唾棄すべき日常」が現前するときに登場している。
私の読みが当たっているかどうか、これだけでは心もとないが、大きく外してはいないだろう。
もちろん、こう思ったのは、夏目漱石ほどの文豪ならば、決して無駄な描写はしないだろうという信頼感があってのことである。
しかしながら、noteに投稿される「小説」(私の作品も含めてだが)を読んでいると、どう良心的に読んでも「この場面のこの描写は無駄じゃね?」と感じる時がある。簡単に言うと、読み終わったあとに「あの場面を挿入した意味はなんだったのだろう?」とふと考えたときに、「伏線回収ができていない」ということである。
もちろん、いい小説であっても、その読者の程度が低ければ、魅力を感じることができない。しかし、noteの投稿小説を読んでいると「無駄が多くて読んでいられない作品」が多い(こういう言い方をすると、敵をたくさん作るんだろうな、と思いつつ😃)。
いい小説の条件③
いい意味で抑制的。推理小説として読むことができる。
①と②にも関係することだが、素人小説家は、先を焦りすぎる。
例えば、一人の女の子を主人公とする場合、最初に作者の設定を書き込もうとする。
「この女の子は、高校を出たばかりで、見た目は普通の顔だちだが、巨乳で、人から騙されることが多い人生を歩んできた」(架空のダメ小説)
別にそんなことを最初に全部書かなくてもいい。というか、書いてしまったらつまらない。
物語が進んでいく中で、「巨乳だったのか!!」と分かったほうが面白いでしょう?
「人から騙されやすい」ということだって、読者にそう思わせる場面なり、描写をすればいいのであって、「まとめて全部」一ヵ所に書く必要はない。というか、書いてはつまらない。
一つ一つの「断片」から、主人公を髣髴とさせる小説のほうが「いい小説」だ。
いい小説の条件④
終わり方が優れている。
主人公が生まれてから死ぬまでを描いた作品もあるが、小説でも映画でも必ずエンディングがある。
ハッピーエンドにしたいならば、例えば主人公の女性が恋い焦がれた彼氏と結婚する場面で終わらせる。どちらか一方が死ぬまで描いたら、ハッピーエンドではなくなる。
「当たり前じゃん!!」と思われるかもしれないが、ドラマでもそうだが、「最終話」が妙なところで終わったがために、作品全体が駄作に思えることがある。
書き始めたものには、必ず終わりがある。締めくくる場面や言葉は非常に大切だ。短編か長編か問わず、「いい小説」は「いい終わり方」をする。
アレクサンドル・デュマの長編小説「モンテ・クリスト伯」の結びの言葉。
「待て、そして希望せよ!」
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