短編 | ペコちゃん
「ペコちゃん」
僕は何度この名前を口にしたことだろう。幼稚園の年長の頃に出会ってから小学1年生の1学期までだから、ちょうど1年くらいの付き合いだった。けれども、たぶん何千回も「ペコちゃん」と呼び掛けたはずだ。
学校から帰ってくると、自分の家に帰るよりも前に「おばさ~ん、ペコちゃんは?」と伊藤さんのおうちに立ち寄るのが僕の日課だった。
ペコちゃんは、伊藤のおばさんが飼っていたダックスフントの名前だ。とても小さくて、とても太っていて、とても可愛かった。
ただでさえ足が短いのに太っていたから、いつもお腹を地面にこすりつけていた。たしか、お腹を何回か擦りむいて、包帯を巻いていたことがあった。
「おばさ~ん、今日はペコちゃんは何を食べたの?」
「今日はね、うなぎ」
「うなぎ?僕は最近食べてないなぁ」
「ははは、残ってたら、あきらくんにもご馳走したんだけどね。ペコちゃんはうなぎが大好きだから、全部食べちゃったの」
「ペコちゃんね、僕よりもいい物を食べているみたいだよ」
「ああ、あの人ね、ちょっと変わっているから」
「そうかなぁ。とても優しいおばさんだけど」
「優しいことは優しいんだけど、悲しい人ね。親しいお友達がいないみたいだから」
しばらくして、僕は遠い街に引っ越しすることになった。一応、新しい住所をおばさんに伝えにいった。
「あきらくんとは、もう会えないのね。寂しくなるわね。今日はさ、ペコちゃんのことを抱っこしてみない?」
おばさんと最後に会ったその日、僕は初めてペコちゃんを抱っこしてみた。今までも何度か抱っこしてみたいな、と思っていたんだけど、なんだか分からないけれども、おばさんに悪いような気がして遠慮していたのだ。
「ほんとうに抱っこしていいの?」
「あきらくんが抱っこしてくれたら、きっとペコちゃんは喜ぶと思うの」
僕は初めてペコちゃんを抱っこした。そんなに大きくはないけど、小学生の僕にとってはかなり重く感じた。しばらくして、ペコちゃんは僕の顔をなめ始めた。
「わっ」
僕は思わず声をあげてしまった。
「あら、こんなこと初めてだわ。ペコちゃんね、すごくあきらくんのこと、好きみたいよ」
僕はなんだか照れくさかった。そして、おばさんに少し申し訳ないような気がした。
引っ越してから、しばらくたった頃、僕宛に一通の手紙が届いた。
僕には何が書いてあるのか分からなかったから、お母さんに読んでもらった。
「今度の年賀状ね、伊藤さんは出さないでほしいんだって」
「どうして?」
「ペコちゃんがね、死んじゃったらしいの。人が亡くなったわけじゃないのに、少し大げさね。やっぱり伊藤さんは寂しい人ね」
そうかなぁ。僕にはただ優しい人にしか思えないけど。ペコちゃん、死んじゃったのか。なんか寂しいな。またいつか会いたかったな。ペコちゃんにも、おばさんにも。もう叶わぬ夢だけれど。