エッセイ | 折々のことば
昨日の新聞の「折々のことば」。
「本当に印象が深い場合は感想が出るより前にまず、ポカンとするのではないか。」
アダム・スミスの研究者として知られる経済史家の内田義彦のことばである。
「なるほどな」と思って、昨日記事にして書いてみようと思ったのだが、よく言葉の意味を考えてから書こうと思って、今この記事を書いている。
もっと時間が経ってから書いてみてもいいと思ったのだが、今日は新聞がお休みで、昨日の新聞をそのまま置いてあったので、再び目についた。
ふだん、心に残ることがあっても、「すごい!」「共感した!」というような簡単な言葉でまとめてしまうことが多い。あるいは、言葉にすることなく、そのまま忘れてしまうことも多い。
例えばスポーツを見て「すごい!」と思ったあとに、心の中であれ、言葉を発するときであれ「すごい!」と言ってしまったあとは、何がどう凄いのかなんてあまり深く考えることはない。せいぜい過去の記憶と照らし合わせたり、それにまつわる記録を検索してみたりすることが関の山である。
内田義彦のことばのように、本当に印象が深い場合は、ポカンとしているのが普通なのではないだろうか?
こういったことは、スポーツや芸術の鑑賞だけに限ったことではないだろう。
一冊の本を読む。なにか心にジーンと響くものがあった場合、学生時代の読書感想文の影響なのかどうかは知らないが、すぐに何とか言葉でまとめようとしてしまう。
「ポカーン」とした状態にとどまって、深く考えようとはしない。感動したという気持ちも、感動した原因がわからずモヤモヤっとしていると、心配事と同じで、なにか言葉を与えて、早く不安的な気持ちから逃れようとしてしまう。
日々刻々と変わっていく世界に私たちは生きているから、楽しいことであっても、つらいことであっても、すぐに安直な言葉を与えて、目の前で起こった現象から逃れようとする癖がついている。
なにか目の前で起こったことを見たり、あるいは、人の話を聞いた直後に「感動しました」「共感しました」という言葉を言うだけで終わってしまう人が多くなった。
楽しかったことであれ、つらかったことであれ、ポカーンとしている時間に浸ってみたいな、というのは贅沢なことになったのだろうか?
昔と違って、音楽でも映画でもニュースでも、「時間節約」のために、あるいは、「効率性」のために、倍速で視聴する人がいるという。2時間の映画やドラマを倍速にして、1時間で見てしまうことも普通になってきていると聞いたことがある。
倍速にしても、慣れてしまえば、ストーリーを把握したり、表面上の理解をすることは可能だろう。だが、そういった理解に心が伴っていくことは可能なのだろうか?
仮に、倍速にして同じことを半分の時間で理解できたとしても、私たちの涙は2倍の速さで流れるわけではないだろう。
多くの「感動」を手に入れようとしても、それが結晶化するまでの時間を短縮できるわけではない。
ポカーンとした状態に踏みとどまって、じっくりと考えてみないと、本当は何がすごかったのかなんて、心で理解することはできないのではないだろうか?
「感動を与える」とか「感動させたい」とか「感動したい」とか、感動という言葉がインフレ気味だ。本来なら感動とは、自発的に心が動くこと。無理に感情を動かすことは、感動ではない。本当の感動とは、感動しようと思って何かを見たり聞いたりすることではない。
理由はすぐには分からないけれども、はからずも心が動いてしまうことを「感動」という。
感動したことを安易に「感動した!」と言うことには、違和感をもつ。