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エッセイ | 文系モードと理系モードの間
文章を書いたり読んだりしているとき、「良い文章ってなんだろう?」と考えることがある。
「『ですます調』と『である調』を使い分ける」とか「小説では説明ではなくて描写する」とか、1つ1つの「書き方のルール」は理解できる。
しかしながら、『ですます調』と『である調』とが混在していても、必ずしも気にならないこともあるし、小説をスムーズに進めるためには、説明が必要なときもある。文法的に正しくても、統一性があっても、リズムが語調やリズムが悪くなると読みづらい悪文にだってなりうる。あれもこれもルール通りに書いても、全体として内容が頭に入りにくい文章は悪文だろう。結局のところ、書くルールを遵守しさえすれば名文になるとも限らず、文章の書き方に絶対的なルールはない、と言っていいだろう。
自由度が高いぶん、作文を書くと正答がいくつもあるような気がしてきて、疲れてくるものだ。
そういう気分になった時には、私はエッセイや小説などの文章を書くことを中断して、数学的な記事を書いたり、イラストを描いたりしている。同じ頭を使うといっても、使う頭の箇所が文章を書く時とは多少違うから、気分転換になる。あえて言えば、小説やエッセイを書く頭と、数学したり絵を描く時の頭は、「別腹」ならぬ「別頭」なのかもしれない。
文章を書くのと異なり、数学では途中の思考プロセスが異なったとしても、考え方に間違いがなければ、最終的な答えは同じものが出てくる。だから、安心感がある。しかし、何度考えても、出てくるべき答えが出てこなかったり、模範解答を見ても意味がわからなかったりすると、フラストレーションがたまる。そうすると、完璧な答えがないエッセイや小説を書くほうがいいかな、と思えてくる。
というわけで、私はずっ~と小説を書き続けたり、ずっ~と数学の問題を考え続けたりすることはできない。
一言でいうなら、私には「集中力がない」ということなんだろう。
ずっと毎日小説を書いて投稿できる人、いつも詩を書いて投稿できる人、毎日英文の記事を書き続けられる人。ホントにすごいな、と思いながら記事を拝読する。
自分で自分のnoteのページを開くと、「この人はいったい何を考えているのだろう?」と我ながら憐れに思う。私のnoteには統一感がまったくない。書いても書いても、「これが本当に言いたいことではない!」の繰り返し。同じところをグルグル回っていて、成長がまったくない。もう何も書かないようにしようかな?
書く代わりに、走ったり泳いだりしたほうが余程健康的だ。
#振り返りnote
#文系モード
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