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翻訳について


この記事は、以前書いた3つの記事をひとつにまとめて加筆修正したものです。

(1) alimentとailment

 英文を多読したいと考えていた頃、斎藤兆史・上岡伸雄「英語達人読本」(中央公論新社)を購入した。その中で、ソロー「ウォールデン」の一部が掲載されていて、これなら英語で読めるかも、と思って、原書を購入した。

 岩波文庫の「森の生活(ウォールデン)」は学生のときに読んでいて、手元にあったから、英語で読んで分からなければ、日本語で確認すればいい、と気楽に思っていた。

 ペンギン・クラシック版で読み進むうちに、" reading " の章で、次の文に出会った。We spend more on almost any article of bodily aliment or ailment than on our mental aliment.

alimentとailment。それぞれ「栄養」と「病気」という意味。
でも、綴りをみれば明らかに「言葉あそび」している。

頭韻と脚韻。

岩波文庫では、どう訳されているのか?

aliment → 滋養 (じよう)

ailment → 持病   (じびょう)

意味も「ダジャレ」(?)も、ちゃんと訳されている。感動!

一応、引用箇所の訳文を載せておきます。

「われわれはからだの滋養  -- じつは持病-- となるものに対しては、精神の滋養物以上に金をかけている。」

H.D.ソロー著 ( 飯田実 )、「森の生活(ウォールデン) (上)」、岩波文庫、p194より


(2)「内弁慶」「ネット弁慶」をどう訳す?

だいぶ前のことだが、友人との会話の中で「ネット弁慶」という言葉を知った。そのとき初めて聞いた言葉だったが、「ネット上では色々自由にいいたいことを書くくせに、実際に人と会うと意見が言えない人」みたいな意味なのだろうとすぐに理解できた。

ネット+内弁慶=ネット弁慶

ということで(どういうこと?)、今回は「内弁慶」をどう英語に翻訳するかの話をしたいと思います(強引な話の展開だなぁ)。

手元にある「ウィズダム和英辞典第2版」(三省堂)で「内弁慶」を
ひいてみると

うちべんけい 内弁慶
◉内弁慶である(=家ではいばっているがよそでは人の言いなりである)
be bossy at home but
submissive elsewhere.

と出ている。他の辞書も当たってみたが、大差はなかった。

英語にない言葉だから、「内弁慶」に限らず、日本語に訳そうとすると、言葉を尽くして説明するしかない。しかし、もっと短く表現できないだろうか、と頭の片隅でずっと考えていた。

しばらくしたあと、Orhan Pamuk, "The Red-Haired Woman "を読んでいたら

" He's an angry introvert,
a peculiar sort of guy."

という文に出会った。

" an angry introvert"って「内弁慶」のことだ!

と話の筋とは関係のところで感動してしまった。

「怒ってる内向的な人」

もっと簡潔で過不足のない表現があるかもしれないが、もし「内弁慶」を、今翻訳しなければならないとしたら、私は、「内弁慶」を

"an angry introvert"

と翻訳するつもりである。

「ネット弁慶」なら、

an angry introvert just on SNS

これはちょっと長すぎますか?

「内弁慶」に限らず、どう訳したらいいかという問題は、普段から注意したいと思っている。


(3) "unlearn"に対応する日本語は?

 おそらく10年以上前、哲学者の鶴見俊輔さんがNHKのドキュメンタリー番組に出演していたのを見た記憶がある。その番組の中で、鶴見さんが留学時に先生から「学んだことがそのまま使えるわけではない。''unlearn ''しないとね。」とアドバイスされたことを話していた。

 「unlearn」という言葉は普段よく使用される言葉なのかどうかは知らないが、小さな辞書には掲載されていない。
 大きな辞書には
「unlearn (v) 忘れる」とだけ出ている。
 鶴見さんも日本語では「学びほぐすかな?」と何となくしっくりと来ない様子で話していた。
 いわんとしていることはよく分かった。
 あくまでも私の解釈だが、例えば初めて自転車に乗るとき、ペダルはどうこぐか、手の動きはどうするか、視線はどこにあわせるか、といちいち頭で考える。
次第に自転車に乗ることに慣れてくると、いちいち頭で考えることはなくなる。これが「unlearn」ということなのだろう。
「忘れる」だと大きく違う気がする。「学びほぐす」でも少し違和感が残る。
 何かピタリとくる日本語はないものか?
 それから何年か時が過ぎて、「unlearn」という言葉も忘れかけていた頃、たまたま読んでいた鈴木大拙の著書の中で、「習気」(じっけ)という言葉に出会った。

「われわれが何かやる、心で物を考えるとか、体で何か行ないをすると、それがそのまま済んでしまわないで、後に何か残る。これが習気(じっけ)ということになっている。」鈴木大拙、「禅とは何か」、角川ソフィア文庫、p127

 私は「これだ」と思った。私は自分の辞書の「unlearn」のページの余白に
「習気」(じっけ)と書き込んだ。






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山根あきら | 妄想哲学者
記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします