エッセイ | 当たる予想外れる予想
いつの時代も人間は不確実性の中を生きている。たいていのことは、一度限りのものである。しかし、一寸先のことさえ何が起こるのか全く分からなければ、いまこの瞬間にすべきことが分からなくなる。だから、人間は未だに訪れていない時をなんとか予想しようとする。
未来というものをそのままの形では見ることができない以上、人は過去および現在のデータを元にして何とか未来を予測しようとする。
毎日の天気予報、お盆の交通渋滞の予想、株価や為替相場、GDPの予測、感染者数の傾向・予測など、枚挙に暇がない。
しかし、どれひとつとっても、予想・予測というものは外れることが多い。人為的攪乱要素がほとんどないと思われる天気予報でさえ、大幅に外れるということは珍しいことではない。
20年くらい前だったと記憶しているが、「複雑系」という言葉が流行ったことがある。その流れで「バタフライ効果」という言葉を聞いた。
ある国の蝶🦋の羽ばたきが、遠く離れた国にハリケーンを引き起こす引き金になるという寓話。日本のことわざにも「風が吹けば桶屋が儲かる」というものがある。ちょっとした変化が大きな変化をもたらすことを意味する。
数値データにしても「0.1」や「0.01」といった値は、日常の感覚としてほとんど「0」に等しい。しかし、ある数を「0.1」で割るのと「0.01」で割るのでは、「10倍」も値が異なることになる。「0」で割ったらとてつもなく恐ろしい結果になる。
天気予報では恐らく、そのような微妙な数値が全体に及ぼす影響が大きいから、予報が当たらないということが頻繁に起こるのだろう。
では、渋滞予測の場合はどうだろう?天気予報と同じように、微妙な数字の積算によって予測が当たらないということもあり得るが、予測の自己成就的効果(self-fulfilling effect)のほうが大きいのではないか、と考えている。
お盆の帰省ラッシュの時の渋滞予測は当たらないことが多い。それは、例えば「高速道路が混雑する」という予測を知れば、高速道路を避けて一般道を利用しようとする人があらわれるからだ。だから、予測が外れて、渋滞が緩和されたなら、「渋滞予測」が外れたことは、むしろ良かったとさえ言えるだろう。
AIにより、様々な事象の予報・予測は、その精度を挙げていくことだろう。しかし、どんな正確な予想を立てたとしても、人間という存在がある以上、きっとAIの予想が完璧に当たるということはないだろう。
そのような意味では、singularityというものが訪れて、あらゆる場面でAIが人間にとってかわるとは私には思えない。
どっちに転んだとしても、人間には「希望」と「絶望」との連鎖から逃れることはできないのではないだろうか?
当たらない予想・予測に翻弄される人間は愚かとも思えるが、とても美しいとも思う。生きてみないと何が起こるのか知ることができない、ということは大きな希望にも思える。