
小説の書き出し
かれは年をとっていた。メキシコ湾流に小舟を浮かべ、ひとりで魚をとって日をおくっていたが、一匹も釣れない日が84日もつづいた。
はじめの40日はひとりの少年がついていた。しかし一匹も釣れない日が40日もつづくと、少年の両親は、もう老人がすっかりサラオになってしまったのだといった。
サラオとはスペイン語で最悪の事態を意味することばだ。少年は両親のいいつけにしたがい、べつの舟に乗りこんで漁に出かけ、最初の一週間で、みごとな魚を三匹も釣りあげた。
ヘミングウェイ(福田恆存[訳])「老人と海」冒頭より。
⚠️スマホでの読みやすさを考えて、改行および漢字表記を若干改めた。
上に引用したのは、ヘミングウェイの「老人の海」の冒頭。とくに難しい言葉は出てこない。だが、いろいろな情報が詰まっているし、「なぜ?」という興味を読者にもたせる。
たとえば、
①3ヶ月近くも一匹も釣れないのに、老人はなぜ海に出かけるのか?
②少年と老人との関係は?
③なぜ、少年は老人に付き添うことになったのか?
④べつの舟で出掛けた少年が一週間で三匹も釣り上げたことと、老人との対比。
⑤「サラオ」と言われているのに、少年が老人に引き付けられたのはなぜか?
冒頭の部分を読むだけで、その後の展開が気になってくる。また、無駄な描写は1つもない。

ここ数ヶ月、「小説ってなんだろう?」と考えることが多かった。
小説の書き方に関する本を何冊か読んでみた。
共通するのは、だいたいどの本を読んでも同じ。
「分かりやすく」。
「形容詞を少なく」。
「説明ではなく描写せよ!」。
しかし、具体的な手法は?、というと、結局のところ、自分の手を動かしながら一人で考えなければならない。
もちろん、書いたものを他人に読んでもらい、批評してもらうことも大切だ。
どこを面白いと思ったのか?
どこで読むのをやめようと思ったか?
どこを改善したらよいか?
小説とは、どれだけ読まれるのかにかかっていると言ってよいだろう。
私が小説を書くとき、「この人さえ、面白いと言ってくれたら」という気持ちで書くことがある。だが、それではダメだろう。
決して「他人の意見に迎合せよ!」ということではない。読者が「こういう話なら読みたい」という意見を聞き、それを練り上げて書く。しかし、読者が思い付くことより、さらに一つ上の喜びを提供しなければ「よい作品を読めた!」という気持ちにはならない。
せいぜい「思ったとおりでした」ということになってしまう。
よい小説には、読者を引っ張っていく力がある。
「引っ張っていく力」とは具体的にいうとなんだろう?
「うまい文章だな」
「こういう描写がいい!」
というように、巧妙な文章や心地よい文章にひかれるということはある。
しかし、もっとも読者の関心を引き付けるものは、文章そのもののうまさではなく、ストーリーそのものが面白いかどうか?にかかっている。
必ずしも過激である必要はないが、冒頭から「えっ?なぜ?」と思わせて、そういった疑問に対して1つ1つ答えていく。謎解きというものは、それ自体人を引き付けるものがある。その意味で、「すべての小説は推理小説である」と言える。
うまくない小説というものは、無駄な描写が多い。
時間をかけて書いたのかもしれないが、次の文章の謎解きにまったく関連のない「凝った文章」は邪魔以外の何物でもない。
文章がうまく分かりやすいということは、もちろん大切である。へたくそな文章よりも華麗な文章のほうがよい。
だが、如何に文章の1つ1つがうまかったとしても、1つ1つの文章に有機的なつながりがなければ、その華麗さは意味をなさない。
川掃除に行くのに、ダイヤモンドを身につけて、きらびやかに着飾る必要はない。汚れてもよいような、動きやすい作業着のほうがよい。
読者がまず望むことは、流麗な文章でもなければ、何度も繰り返し読まなければ理解できないような文章ではなく、「なぜ?」「次はどうなるの?」というストーリーだ。
このように考えてみると、小説の文章に求められるのは、単なる美しさではなく「機能美」だ。
読者にストーリーの面白さを伝えるために最も適した簡潔な文章。そこに独特な美しさがある。
読者を楽しませるという目的に添うことがいちばん大切であって、作者の能力を誇示するかのような凝った文章など無駄でしかない。

いいなと思ったら応援しよう!
