今日は、 私のプロフィール最終回、第5部 をご紹介しま~す。


英日欧企業マッチングのさきです。

プロフィール第5部です。


6. ロンドンからパリへ
たまたま、私の日本の友人が
働いていた会社の支社がパリにあり、

そこの支社長様という人が、
パリにアパートをもっていた
のですが、空いていたのですね。

その人が、どうせ冬の間は、
借り手も見つからないので、
もし良ければ、そこを我々に

安く貸してくれると言ってくれたので、
私達はかなり早く、パリ行きを
決意しました。

お金もなく、仕事もなく、
子供もいなかったから、失うものが
なかった…。みたいな感じでしたね。

実は、言葉に関しても、夫は
英国の学校でフランス語を
習っていたから、まあまあ、

話せたけれど、私はBONJOUR
とMERCIしか言えない
状態だったので、

これは、かなり厳しかったですよ。。。
何か、まったく言葉が通じないと、

人間というのは、どうなってしまうのか
というお題の生物実験の題材… 
っていう感じかしらね。今思い起こすと…

ううん。まあ、ともかく、
住む所はあったので、夫は、
英語の教師の仕事を速攻で見つけ、

私は、パリ市内のフランス語の
学校に通い始めました。

フランス語でフランス語を習うって、
結構メチャクチャかな… 
モンパルナスの脇の14区の

大学なんかが多い地域にある、
アリヨンス・フランセーズ
という学校の、初心者コース

から始めて、確か3か月後に
その初心者コースを終えたときに、

クラス担任の先生から、
「フランス語がゼロで
このコースにきて、初心者レベル
を終了した日本人は、

あなたが初めてだ」と、
皮肉のような、お褒めのような、

よくわからない、コメントを
もらったのを、覚えています。

ココに通いながら、私もパリの
免税店で販売のバイトを始めました。

6か月この学校で、フランス語の

中級レベルまで

終わった時点で、自分の聞いたり
話したりする能力と、文法の知識の

ギャップに気づき、文法の勉強は、
とりあえずここまでにして、

実践でフランス語を磨くことに
しようと決め、学校はやめて、
販売のバイトを続けながら、

ファッション業界の仕事探しを
始めました。 あの頃は、
(今も多少はそうなのかもしれませんが) 

フランスの職探しって、手書きで
求職の動機を書いたレターと履歴書を
セットで郵送する というもので、

確か、フランス人は筆跡で、
適性判断する、とかって
言われたのを覚えています。 

その手紙の内容も我々は外国人
カップルなので、知り合いになった、
多くはない仏人たちにお願いして、

内容を見てもらったり、してましたね。。。
当時の私が知っていた日本とは違って、

フランスの会社は、かなり仕事効率
と利益性が重視されていて、
お金に繋がらない人は、雇わない、 

ので、仕事能率が悪ければ
どんどん首切りされるし、

何をおいても職というもの
自体が日本より少ないので

(失業率はいつも10%くらいはあった
と記憶しています。)、仕事自体がない。 

だから、新入社員とか、若い人へ、
会社が社員教育をしてくれる
ところなんて、ほぼない。

仕事がすぐできる人しか、雇われないし、
契約だって、期限付きだったり、
逆に、学校卒業仕立ての見習い生は、

一般的には、“スタージュ(研修生)”
とかと言って、ただ働きです。

この仕組みに、最初はかなり、
反感を覚えたけれど、
“無料で仕事が覚えられて、言葉も覚えられて、
上手く行けば、コネができる


から、学校に行ってお金を払うより、
仕事を見つけるには、有効なやり方だ” 

ということが、少しずつ
わかってきましたよ。 
まあまあ、こんなことで、

ファッションハウスで、デザインや
パターンの技術的な仕事の派遣労働者
として、短期間の契約の仕事を

ちょろちょろともらっては、いたけれど、
いつも仕事を探していた…

そんな時期でした。その後、
フランスで娘が生まれてからは、
もう少し、社会性のある、

安定した仕事がしたくなり、
たまたま、技術系の仕事探し

のために送っていたCVを見た、
BALENCIAGA社の
ダイレクターという女性から
TELがかかって来て、

「日本のパートナーがフランス
現地コーディネーターを探している
んだけど、興味あります?」 

と聞かれました。その時には、
私もかなり社会の波に
もまれていたので、二つ返事で

「もちろんです!」と返事をしました。
その後色々日本側の審査とかがあり、

私も日本に帰国した際に、
この商社に面接に行ったりとかして…

結局、日商岩井という商社の
BALENCIAGAブランド専任の
パリ現地ファションコーディネーター
として、雇用されました。

この後、このファッションコーディネーターの
仕事を2年ほどやった後で、BALENCIAが
グッチクループに売られて、

私の日本の雇い主の手から、
離れたので、私は解雇され、
職を失いました。その後で、

同じような仕事を探したのですが、
なかなか見つからず、たまたま、
知っていた仏人の女性が、

フランスの字幕制作会社に居て、
彼女から、英語から日本語訳をする
字幕翻訳者を探しているという、

話を聞き、初めは、乗り気では
なかったのですが、背に腹は代えられず、

フリーランスの字幕翻訳の
仕事をやることになります。

これも初めの5年くらいは、
寝る暇もないくらい
すごい量の仕事が来て、

(当時はたまたま、マルチ言語の
DVDというのが全盛期でした。)、

どこにでも小さいパソコンを
携帯し、よく日本に里帰りする
飛行機内でも、PCをぱちぱち打って、

翻訳の仕事をしていたのを、
覚えています。これも
10年くらいすると、

字幕という仕事が下火に
なってきたので、通訳という
仕事を平行して始めました。

人に会えて、色々なところに
旅行できて、私の好きな英語を

話して、感謝される仕事で、
こんな楽しい仕事はない。。。
くらいに思いました。 

全て独学と実地練習という感じで
スキルを身に着け、少しずつ、少しずつ、
お客さんがとれるようになってきて、

これから、さらに、伸ばしていきたいな…
と感じていた矢先に、コロナ感染が襲ってきて、

ロックダウン等々で、日本からのお客さんは、
来なくなり、いつになったら、
“収束” なんてものが、くるのやら、

明日の予想がつかなくなった今、
自分自身を見つめなおしました。

“何か他の事で、私が、稼げる道は…?”
“ここまで来たら、
今までから少し視点を変えて、

何か新たなビジネスを始めねば
ならないのでは…?” と思いなおし、
コミュニケーションに興味があり、

異端児の私が提供できる、英国&欧州地域と
日本地域の人間たちをつなぐ、
一味違う、楽しいビジネスを始めています。


私のプロフィール第5部、最終回、
最後までお読みくださり、
ありがとうございました。

明日は
違うお題で、お会いしましょう~!
A demain !  See you tomorrow !


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