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EGOIST(第7章)

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第7章

 塚原は、私の不在中にとんでもないミスをやらかしていた。普段から使用を禁じている電動工具を勝手に触り、制御出来ず、近くにあった納品間近のピアノの側面(親板)を傷付けたのだ。先日、お客様が見に来たピアノだ。
 このピアノの外装は、「オープンポア」という特殊な塗装で仕上げられている、美しい外観を誇る年代物のピアノだった。更に、塚原は、無謀にも自力で修復を試み証拠隠滅を図ったが、上手くいく筈もなく、かえって傷口を広げてしまった。そもそも、そのピアノは触れることどころか、近付くことさえ禁じていたのだ。
 しかも、怒られることを怖れたのだろうか、彼は、自分のとんでもない失敗を、一切私に報告しなかった。そして、結局私の知らないままに商品は納品されたのだ。
 当然、物凄い剣幕でクレームが来た。まさに、青天の霹靂……お客様は、先日お会いした時とは別人のような形相で怒り狂っていた。直ぐにご自宅に訪問し、初めて悲惨なピアノの状態を目の当たりにし、あまりにも酷い有様に、私は土下座しながら謝罪した。
 改めて傷を観察すると、ちょっとした補修程度の作業で済むような状態ではなかった。オープンポアは、木材の木目や質感を活かす為に塗膜はほぼなく、木の表面にウレタン等の塗料を染み込ませて固める工法だ。つまり、外装の傷イコール木部の損傷と言える。しかも、かなり深くやられているので、補修なんてやりようがなく、木工から作り直しなる。
 しかし、もしそこだけ上手く直せたとしても、色合いや木の材質の具合は、数年後に周囲から浮いて見えるだろう。何より、このピアノの親板は一枚板なので、部分的に違う木材を継ぎ合わせても、木目や質感が違和感なく繋がるはずもなく、無様な仕上がりになるのは目に見えている。
 そうなると、方法は一つしかない。親板一枚全てを作り直した上で、全塗装……となると、専門業者への委託になる。運送費も往復分。ザッと見積もった損失額だけでも、絶望的な数字になる。
 私は、呆然と血の気が引いていくのを感じると同時に、塚原への怒りに震えていた。 搬出に立ち合わなかった自分の非は棚に上げ、ただ偏に塚原を憎んだ。



 翌日、私は専門学校の理事長に面会のアポを取り、塚原も同席するようにメールで連絡した。何度も電話したが、出ようとしないのだ。しかし、予想はしていたが、彼は面会の席に顔を出すことはなかった。
 理事長には起きたことをありのままを説明し、数十万円の損失の補填を訴え、塚原の解雇を求めた。ところが、理事長は塚原を庇った。塚原がやったという証拠はあるのか? とまで言い出した。その上で、出荷前点検を怠ったからだ、と私を責め始めたのだ。
 私は呆れ果てた。根本的に違うのだ。あのピアノは、前日には出荷の準備は全て終えていた。ただ、出荷に立ち会えなかったので、運送屋の対応を塚原に任せたのだが、そのちょっとだけ出来た隙間の時間に、傷付けられたのだ。
 逆に言えば、ピアノが仕上がってから搬出されるまでに、ピアノに近付けた人物は塚原しかいない。搬出の立ち会いは、工房の開錠と施錠を頼んだだけで、そもそも、そのピアノに触れることも、電動工具の使用も、厳格に禁じていた。
 なので、私の落ち度は、強いて言えば搬出時に立ち会えず、塚原一人に任せたことだろう。確かに、その場に私が居れば、傷に気付いただろうし、出荷を先送りにすることも出来たかもしれない。
 でも、いずれにしても、塚原がピアノを傷付けたことは明白な事実。それに関しては彼の一方的な過失であり、私の対応とは全くの別問題だ。それなのに、理事長は塚原を庇い、私を責める……その時、私は全てを悟った。私は利用されているだけだということを。

 格安で工房を借りているとはいえ、専門学校からすると、使い道を無くした物件の有効活用に過ぎない。しかも、そこで家賃収入を得る上に、格安で下請けを発注する。更には、自己満足の為に、僅かな手当てと引き換えに、特定疾患を患っている人間の面倒を押し付ける。全て、私や塚原の為を装っているだけで、利己的な欲望の解消に他ならないのではないか?
 そもそも、塚原は私の部下ではない。雇い主は理事長だ。嫌々預かってるだけで、無理矢理押し付けたのは理事長だ。塚原に合鍵を渡したのも理事長だ。私のいない時に勝手に工房に入り、ピアノを傷付け、報告しなかったのは、理事長の部下なのだ。
 元はと言えば、塚原が自由に工房へ出入り出来るようにしたことも、おかしな話だろう。一般的に見ても、賃貸のテナントにオーナーの部下が合鍵で自由に出入りしていること自体、有り得ない話だ。
 それに、よく考えると、今回の出来事は社員が出向先で大きなミスを犯したのと同じ構図にもなる。しかも、時間外に無断で作業して報告もなし。そのミスを犯した人物の所属先の責任者が、失敗を庇い、責任逃れをしている。それどころか、出向先に責任を押し付けているのだ。有り得ない話だろう。
 今まで感謝していたことが、急激に馬鹿らしく思えてきた。少し視点を変えると、ただ単に弱みにつけ込まれ、いいように利用されていただけだ。
 私は、その場で工房を引き払うことを告げた。もう、工房も仕事も要らないので、塚原とも終わりにしたい。そう訴えると、理事長は冷ややかな蔑んだ目で私を睨み、一言「勝手にしろ」と言った。

 損失に関しては、手紙を添えて、塚原へ直接請求した。すると、僅か数日後には少し大目に振込まれていた。そう言えば、彼の実家は資産家だったのだ。おそらく、ご両親が支払ったのだろう。そんなことなら、もっと大目に請求すべきだったと後悔した。
 ピアノは、直ぐに塗装工場へ運び込み、無理を言って早急に対応してもらうことになった。お客様へは再度頭を下げに伺った。その席で、塗装期間中はピアノの無償での貸し出しを要求された。幾らか大目に振り込まれたところで、貸し出すピアノに要するに経費分は賄えない。この時点で赤字確定だ。
 今回のトラブルでは、開業して数ヶ月が経ち、ほんの少しだけ出来た蓄えを、一気に吐き出さないといけなくなった。いや、金銭だけの問題ではない。何よりも、お客様からの「信頼」を失ったのだ。
 結局、塚原からは最後まで謝罪がなく、それどころか全く連絡すら取れなくなった。手紙には、一度説明に来てくれ!  と書いておいたが、もちろん彼が会いに来ることはなかった。結果的には、それで良かったのかもしれない。もし会えば、彼がクローン病を患っていることも、薬の副作用で骨が弱くなっていることも知っているが、間違いなくボコボコにぶん殴っていただろう。私が犯罪者になっていたかもしれない。彼も、再度入院することなっていたかもしれない。でも、そんな理性をコントロールすることは出来ないぐらい、彼への憎悪は膨らんでいたのだ。
 でも、もうどうでもいいことだ。何であれ、ようやく塚原から解放されたのだ。まずは、そのことだけでも喜ぶことにした。



 さて、工房を飛び出し、専門学校と決別した私は、完全に後ろ盾のないフリーの立場になった。そう言うと聞こえは良いが、実際は、工房だけでなく収入もほぼ全て失うことになり、自営存続の危機に面していたのだ。今まで使っていたボール盤やバフ機、コンプレッサー、ベルトサンダーなどの機材ももう使えなくなるので、もし修理の仕事を行うにしても、自宅で出来る簡易的な作業に限定される。
 ついでに言うと、貯金もほぼ全て使い果たしてしまった。事業所が工房から自宅に変わったので、名刺や社印なども作り直しだ。このままだと、二〜三ヶ月もすれば本当に破産するだろう。
「数ヶ月で破産したら笑ってくれ」——駒田にそんな啖呵を切ってからもう何年も経っているように感じるが、あれからまだ一年弱、私は本当に破産寸前に陥っていた。独立開業は失敗だったと認めるしかない。駒田の予想通り、無計画過ぎたしどこかで起業を舐めていたのだろう。
 私は、恥を忍んで駒田に連絡してみた。何らかの知恵が欲しかったのだ。いや、あわよくば融資も欲しかったし、新事業として、投資して欲しいとも思ったのだ。しかし、駒田は以前と違って、シビアな態度に終始した。

「融資?  投資?  まだそんなこと言ってんのか? あのさ、お前だけは何にも変わってないかもしらんけど、世の中は常に変化してるんやで。あの時と全く状況が違うやろが。あの時はな、俺も楽器業界に参入しようかなって迷ってた時期やったしな、お前も学校から安定した仕事が貰えるって話やったやん。先ずはそれが大前提、それにプラスして、ちゃんとした事業計画があれば、って言ったやろ?  で、結果的にお前には融資出来んって説明したやろが。実は、俺はもう、あの後に楽器店を一つ買収したんよ。音楽産業には、今のところその店に注力したいから、新事業を立ち上げる予定はないな。だから投資はない。融資にしても、今のお前みたいに返済能力も事業計画もないヤツに、一円も貸せるわけないわ。俺も、いくら友達やからって、ボランティアで金ばら撒くほどお人好しやないで。お前さ、学校と喧嘩別れてして収入源を自分から投げ捨てといてさ、これから何やっていいか分からん、どうやって稼いでいいか分からん、何もアテがない、だから金貸してって虫が良過ぎるで。そんなアホな話、どこにあるねん。ふざけんな、って話や。事業の借入やなくて、単純に友達から金借りたいって話やとしても、いつどうやって返すのか分からんヤツには誰も貸してくれへんよ。まぁ、会った時はメシぐらい奢ったるけど、せいぜいそれぐらいやな」

 ぐうの音も出ないとは、まさにこのことだろう。私は、何も言い返せなかった。弁明しようにも反論しようにも、適した言葉を見つけられなかったのだ。それはつまり、全てが的を射た話だからだろう。何かを言う前に、全てが既に論破されている。
 確かに虫が良すぎるし、舐めた話だ。駒田に金を借りても、それをどうやって増やせばいいのかも分からない。いや、営業資金にすらならず、その場しのぎの生活費に消える可能性が高い。つまり、お小遣いをくれ、とお願いしているようなものだ。
 黙り込んでしまった私に、駒田が更に言葉を被せてきた。

「金は貸さんけど、お前のこと、バッサリ切り捨ててあとは知らん、なんて冷たいこと言うつもりはないから、ちょっとだけ言いたいこと言わせてくれ。聞きたくなかったら話の途中でも電話切ってくれや。お前さ……お前が前に勤めてた会社の社長と同じやで。プライドだけ高くて短絡的で。それでも、経営成り立ってた分、社長の方が何倍もマシやな。一度、プライドを全部捨ててみな。今更言うてもどうしようもないけど、理事長に良いように使われてても、別にかまへんのに。そんなことでムカついてどうすんねん。利用されたら、その分取り戻すこと考えたらいいだけのことやん。適当にゴマ擦って持ち上げとけばいいねん。技術に自信あるんかもしらんけど、人間に魅力なかったら仕事も回って来るわけないわ。それに、上から目線もやめろ。お前なんか、社会的に何にも偉くないで。特に、立場が下のヤツに偉そうにすんのもやめな。そんなもん、五円玉が一円玉に偉そうにしてるだけや。せめて紙幣になってからにしろ。もっとも、紙幣になれるような人は、最初から硬貨を見下すことはせぇへんけどな。お前は自分のことを高く見過ぎや。それに、何でも自己中過ぎるねん。エゴの塊やな。だから、自分が損すると思ったら、異常にムカつくんやろな。でもな、人に利用されてもええやんか。騙されても、自分で分かってたら別にいいやん。ちょっとぐらい、損被っても構わへんねんって。そんなことでいちいち怒ってたら、もっと損することになるねんって。ちょっとの我慢で済むことや。それぐらい、誰でも出来ることやねん。でも、プライドが高いヤツに限って、そんなことも出来へんねん。今変わらんかったら、お前なんか一生底辺這うだけの人生やぞ。えぇのか?  騙されたと思って、しょうもないプライドなんか捨ててみな!  人に融資頼む前に、そこからやり直せよ!  もっとよく考えて計画立てて、目標持って、ガムシャラに血反吐ちへど吐くまで頑張れよ。それに、俺は言ったよな? 初心忘れるべからずって。お客様に喜んで欲しいのか、お前が満足したいのか、本気で調律師続けたいんやったら、どういう気持ちで取り組んだらええのか、もう一回見つめ直してみな! 大恥掻いてもええから、プライド捨てて己を晒して、死に物狂いでやってみな。それからやったら、三百でも五百でも、喜んで融資してやるよ」

 私は、いつしか駒田の話に聞き入っていた。前半こそ感情的になってしまい、それこそプライドを傷付けられた気がして、ムカついて反論し掛けたものの、徐々に冷静になるにつれ、全てが正しい意見に思えてきた。同時に、こんな辛辣なことを正直に話してもらえることは、とても有り難いことなのだと思えてきた。
「駒田……ありがとう。お前に相談して良かった。ぶっちゃけ、ちょっとムカついたけど、全部お前の言う通りや。俺、最低な人間やな。確かに、今しか変われるチャンスないかもな。初心、完全に忘れてたわ。そうやな、ピアノを少しでも良くして、お客様に喜んでもらう仕事のはずやんな。いつの間にか自己満足にすり替わってて、変なプライドだけが知らん間にこびり付いてた。もう一回、初心を思い出して、プライドは捨ててみる。泥水すすってでも、この世界で生きてみる」
「おぉ、分かってくれたんなら嬉しいわ。もうこれ以上は何も言わんから、焦らんとコツコツ頑張ってくれな。厳しいこと言うて申し訳ないんやけど、成功して欲しいと思ってるから」
「うん、分かってるって。今のままやと先がないもんな。おかげ様で目覚めたわ。とりあえずバイト探さなあかんな。それと、多少なりとも付き合いのある会社にも片っ端から連絡してみる。簡単な仕事、格安で卸して欲しいって頭下げて回るわ。そこからやな。ほんま、ありがとう」
 駒田のおかげで、私はようやく目が覚めた気がした。そして、初めて少しだけ自分を知ることが出来た。とんでもないクソ野郎だったってことを。


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