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#2自分は正解を知っていると思っている人ほど陥りやすい

ピアノのレッスンは人と音楽によるコミュニケーションの場です。多くの場合、ピアノと指導者と生徒で三角形に向かい合い、言葉と音で、時には手取り足取りしながら、生徒によりよい音楽を作り出してもらおうと共に時間を過ごします。

この特別な時間をどのように過ごすのかが、生徒自身の音楽経験にそのまま繋がっていきます。そのコミュニケーションのあり方を伊藤亜紗著「手の倫理」をヒントに探ります。

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ホームページによると著者の伊藤亜紗さんは、美学・現代アートを専門としていて、現在は東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授であり、障害を通して人間の身体のあり方を研究しています。2020年に出版された「手の倫理」は、「ふれる」と「さわる」という二つの触覚を通じた人との関係を通して、「良き生き方」ならぬ「良きさわり方/ふれ方」とは何なのか、様々な場面における手の働きに注目しながら、そこにある触覚ならではの関わりの形を明らかにしていきます。

ここでは「第4章 コミュニケーション」で触れられる内容を紹介します。

伝達モード・生成モード

著者はコミュニケーションのモードを「伝達モード」と「生成モード」に分類します。

「伝達モード」とは、

メッセージの発信者がいて、その発信者が伝えようとしたメッセージが、受信者の元に伝わっていく。非常にシンプルです。

例えば、結婚式のスピーチ、交通標識や道案内の矢印などがあげられます。

伝達モードの特徴は、発信者から受信者へという一方向の作用が想定されているということです。

この伝達モードの反対側にあるのが「生成モード」です。
「生成モード」とは、

やり取りの中で、メッセージが持つ意味や、メッセージそのものが生み出されていくタイプのコミュニケーション。

やり取りは双方向的で、「発進者・受信者」という役割分担が意味をなさなくなります。

「その場で作られていく」というライブ感が特徴です。

そこではあらかじめ準備されたメッセージが相手のもとで違う意味を持ってしまうことは、コミュニケーションの失敗ではありません。生成モードにおいては、やりとりの中に生じるそうした「ズレ」こそが、次のコミュニケーションを生み出していく促進要因になるのです。

実際には、多くの「伝達モード」の場面で生成的な要素が混じっているとしています。

ピアノのレッスンの場面で考えるならば、指導する側とされる側という立場から伝達モードが優勢になることがあるのは避けられないと言えます。しかし次に挙げられた事例を見ると、伝達モードがコミュニケーションの場面で起こしてしまう事態がレッスンの中でも起きやすいと考えさせられます。

接触面のコミュニケーション

ここでは、脳性まひ当事者で小児科医の熊谷晋一郎が子どもの頃に体験したリハビリを参照しています。

生成モード《ほどきつつ拾い合う関係》

熊谷はリハビリでのトレイナーとのやりとりをいくつかのタイプに分類しその一つが《ほどきつつ拾い合う関係》と呼ぶものです。

例えばトレイナーが私の腕を伸ばすとき、トレイナーの腕を引っ張るという動きと私の「腕が伸びる」という動きはセットになっている。

トレイナーが腕を引っ張ることによって、熊谷の腕が伸びるという受け身の運動のように思われるけれど、それほど単純ではないと言います。トレイナーが熊谷の腕の伸び具合や筋肉の張り具合を感受しながら「腕を引っ張る」力の強さを調節しているので、熊谷の「腕が伸びる」が能動的で、トレイナーの「腕を引っ張る」が受動的ともみなせるといいます。

私の腕の動きとトレイナーの腕の動きとのあいだには、相互に情報を拾い合い、影響を与え合う関係が、ある程度成立している。

「体の専門家」であるトレイナーが熊谷のリハビリをサポートするとき《ほどきつつ拾い合う関係》の場合、動作の主体が見た目ほど単純ではなく、接いったん接触が成立した後でも、どちらが主導権を握るのか、つまりどちらが触れる側でどちらが触れられる側なのか、小刻みに変わりうるものです。

トレイナーの中には、何かの目標や理想があったのかもしれません。けれども、実際に腕に触れてやり取りする段階で、「これが正しい位置です」とばかり熊谷の腕を引っ張る伝達型のコミュニケーションから離れています。代わりに、伸ばす速度や角度、あるいは距離を、リアクションに応じて調整する生成型のコミュニケーションを行なっている。

伝達モード《加害/被害関係》

一方、伝達モード的な関係を熊谷は《加害/被害関係》と呼びます。

《加害/被害関係》に置いて体が見捨てられていくときの、体のパーツを一つずつ切り離して統一が失われていく感じというのは、(・・・)私にいとって無関係なモノとして体のパーツを見捨てていくプロセスだ。
そこでは、体のパーツが次々に経て行く感じで身体の統一感が失われて行く。私はもはや、切り離された腕や足といった体のパーツから発せられる痛みを、我が事のように感じにくくなっている。私の体とトレイナーの体との間にあったはずに自他の境界は、体のパーツを一つまた一つと略奪されるに伴って、どんどんと私側に押し寄せてくる。そして最終的には、体のほとんどをトレイナーに奪われて、「私」は体を持たずに宙に浮いた存在のようになる。

熊谷の体は、トレイナーが「こうあるべき」と考える正しい体のあり方を伝え、実現するための単なる道具になってしまっていてそこには双方的なやり取りはありません。

自分は正解を知っていると思っている人ほど、つまりトレイナーとしての自信がある人ほど、もしかすると伝達モードに陥りやすいのかもしれません。

場によっては適切になり得る伝達モードのコミュニケーションですが、体を介した接触コミュニケーションの場合、伝達モードに陥ると熊谷のように自分の統一感が失われ道具になったように感じるという事態を招きかねないことがわかります。

ピアノ・レッスンの最適モードとは

このことはピアノレッスンの現場でも陥りやすいことです。

ピアノのレッスンがとらえどころがないと感じるのは、勉強やスポーツと違い、はっきりした正解がないところです。塾や学校での授業ならば学ぶことがはっきりしています。スポーツならば「勝つ」という明確な目的があります。一方、音楽には絶対的な正解があると言い切ることができません。なぜなら、それは音楽をする本人の中にあるものと密接に関わり切り離せないからです。音楽大学に合格することや、コンクールに入賞することなどを目的にした場合はそこには明らかな「正解」が現れますが、音楽をすることの正解ではありません。

その個人的な体験と密接に関わっている音楽を扱っているからこそ、指導と言えど、伝達モードでは解決しきれない部分があります。

少し極端ですが、熊谷の言葉にある「体」を「音楽」と、「トレイナー」を「指導者」に言い換えることもできるのではないでしょうか。

「音楽が見捨てられていくときの、音楽のパーツを一つずつ切り離して統一が失われていく感じというのは、私にとって無関係なモノとして音楽のパーツを見捨てていくプロセスだ。」

「音楽のほとんどを指導者に奪われ、私は音楽を持たずに宙に浮いた存在になる。」

多くの場合、生徒はこのように詳細に自分の体験を言葉にする手段をまだ持たない子どもで、そこで起きることを受け入れていきます。だからこそ、なおさら指導者である私たちは注意深くならなければいけないと感じます。


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きっこ@ピアノ・レッスンズの中の人
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