大学院生の落書き#3日本的な何かに感じる何か
#2でえらく実用的な文章を書いてしまったので反省しつつ今回は実用性0へ全振り。
写真は今日行ってきたwad cafe(https://wad-cafe.com)というお店で撮ったもの。これでもかと様々な日本茶があり、上の階でギャラリーも開催するなど器にも拘っているかなり和風全開のお店だ。おすすめ。
思えば昔から「和風が好き」と言い続けてきた。好きな料理も建築も、文化も芸術も和風が好きだと小学生くらいから思い続けてきた。せっかく日本にいるのだから、変に日本文化について勉強したりはせず、感じれるものを感じて感性を育てていこうという方針を取ってきた。言葉は常に抽象的で複雑で連続なものを具体的に単純に離散的なものにしてしまうものだから、それを用いて勉強するのももったいないなと思うのである。(とは言っても日本語は「をかし」のようにかなり抽象的なままに伝達しようとするので、だからこそ日本文化が好きなのだが)
とはいっても、日本文化とは何か、もっと抽象的にいうと日本的なものとは何かが自分の中で固まっているわけではなく、これはそう、あれは違うと選別できるわけでもない。何となく日本的なものと感じるものがこの世界にはあって、それをいいなぁと思っているだけのものなのである。そう、いいなと思う気持ちすら曖昧で、よく分からない。
表紙の写真の湯呑みを見てみよう。(危うくコップと言いかけた)この湯呑み、何だか非常にいいなと感じれるが何がいいのか。形を見ると非常に非対称。西洋文化が作り出すコップは物凄く対照的な構造をしている一方でこの湯呑みは全くもって対称的な要素がない。飲み口ですら非対称で、「お!飲む場所によって風味が変わるのでは!」と思いクルクル回しながら飲んでみるがよく分からない。おそらくワイングラスのように香りが上手く溜まるようにと何か意図して作られているわけではないだろう。だが表面も内側は焼く時のヒビだらけで外側はザラザラで場所によっては砂っぽい。これほどまでにめちゃくちゃなはずなのに、一つの湯呑みとして見ると何ら違和感なく、どこか均衡が保たれていて美しい。素晴らしいじゃないか、この日本的な感じ!非対称性が和風的な何かが持つ重要な要素なのか!と思いきや、非対称性が和風的なものの持つ普遍的な特性ではないことはすぐにわかる。
東北のどこかでふと撮った写真。確か世界遺産のすぐ側にあり、これはこれでかなり由緒正しき和風的な何かであるはずだが、非常に対称的な構造をしている。難しい。
次にはそうか、形は重要ではなく経年劣化か!これが侘び寂びか!と思うわけだが、これはある程度的を射ている気がする。がしかし、それでは世界中に数多くある様々な建築物なども同じではないか?確かに非常に似ているものも感じるし、そちらもかなりいい感じに見える。だが和風的かと言われると違う気もする。一体和風的なものって何なんだろうと悩み続けるわけだが、一つだけ鍵になりそうな要素がある。それは自然に対する姿勢だ。
日本的な何か侘び寂びに代表されるようには経年劣化を良しとする文化があるが、これだけなら西洋文化と変わりはない。しかし大きな違いがあり、建築物でいうと木と石。広げて言えば自然を取り込む、あるいは取り入れるか自然を制圧しようとするかの違いがある。日本的な何かには常に修理の習慣があるように思える。壊れゆく全てのものを少しずつ修繕しがら時を刻んでいく。自然の中に営みを取り込み、一体化する。そんな心が日本的な何かにはあるように思える。硬く頑丈な石を置いて自然による侵食を克服せんとする西洋文化とはここが大きく違うと思われる。
何とか好きと感じる日本的なものが何なのかの尻尾は掴んでいるのかもしれない。ただ冒頭で述べたように言葉で表すことが重要でもないだろう。あまり難しく考えず、感覚を養っていけばいいかなと思うわけである。
これは去年撮った同じお店での写真。ただしLeica Q2で撮影した。何とも趣深く素晴らしい。一つのお茶を落ち着いて一煎、二煎と繰り返し味わってみる。非常に贅沢な経験だ。そういえばLeicaは物凄く日本的だと思っている。(思いっきりドイツのメーカー)そんなLeicaを片手に、日本的な何かを探しながら旅をするのが大好きだったりする。まだ感じ取れていない、だが確かにこの日本という国で何百年とかけて醸成された日本的な何かを感じ取るために、ドイツのカメラの手を借りてもいいんじゃないかなぁなんて思いながら次にどこへ行こうかと何となく考えていたりする日々である。
これは早朝、日の出前に一人宿を抜け出して撮りに行った伊達政宗像。像自体は西洋っぽいなと思いつつ、この写真にはどこか日本的な何かが宿っているなと思わなくもない。結局なんだかよく分からないが、それでいいのだろう。