▪︎秦始皇帝の考察▪︎
一般常識の歴史の矛盾点や疑問を自分なりに考察していきます。
私の先祖が父方が秦始皇帝で母方が平家なんですが。
私の祖先の霊が現れた事がキッカケで歴史を調べ直す事になりました。
平家物語と太平記に秦始皇帝の事が記されています。
秦始皇帝が生きた時代は紀元前2世紀から3世紀頃だと一般的な歴史で教えられてきましたが。
平家や後醍醐天皇の時代とは、1500年以上も離れた時代の秦始皇帝の事が記されているのです。
平家物語の始まりに【祇園精舎の鐘の声】の詩が書かれていますが、その歌詞の中に『先帝の政に従わず』という内容が書かれています。
ちなみに祇園精舎とは、中国にある寺です。
滋賀県の琵琶湖を拠点としていた平家が中国の官僚達が政(秦始皇帝)に従わないことが嘆かれています。
この文献を解釈する学者の方が『政』の単語を『政:まつりごと、政治』としていますが、実は秦始皇帝の名前である『政:まさ、名前』ではないかと思われます。
それを確証に導く文献が後醍醐天皇の時代の戦国の世に書かれた【太平記】です。
後醍醐天皇の太平記の中に【先帝崩御の事】という章があります。
そもそも【皇帝(エンペラー)】の称号は、明治維新後に日本の天皇に世界で唯一与えられた称号です。
ですからこの時代の後醍醐天皇は、『天皇』であり『皇帝(エンペラー)ではありません』
秦始皇帝は、その名の通り『皇帝』です。
太平記で天皇である後醍醐天皇が『先帝崩御の事』という章の中に『秦始皇帝が生前に自分の墓を作り宝玉を埋めた』ことが記されています。
この文章から推測すると後醍醐天皇の称号も『皇帝(エンペラー)』で、その先帝が秦始皇帝だったことになります。
そして後醍醐天皇は、太平記の中で1番に望んでいた気持ちは【四海の太平】です。
だから題名が『太平記』なのです。
後醍醐天皇が皇帝(エンペラー)であるならば、世界天皇の称号だった事になり『四海』の意味が『世界』となります。
ですから『太平記』は、『世界の太平』を願った文献なんだろう!
それを裏付けるのものが日本の寺の神殿に残されています!
バクトリア王のデメトリオス1世と秦始皇帝の時代は、同じような年代に隣り合わせた領土の王様でした。
同じ檻にライオンが2頭いるような状況で、この2人が絡む文献は残されていません。
実は、この2人は同一人物じゃないかって事です。
それを裏付けるのがこれ!
日本の国宝級の寺の神殿には、ほぼ必ず【インド象の彫り物】が飾られています。
京都太秦の大酒神社に秦始皇帝が祀られていますが、その隣にある弥勒菩薩が祀られている広隆寺と元は同じ敷地だったそうです。
明治期に敷地を分けられたそうです。
もしかしたらデメトリオス1世が秦始皇帝と同一人物で世界天皇(エンペラー)だった可能性も考えられます。
明治期くらいの時期に、日本史も世界史も清書も書き変えられた可能性がありますよね。
それを更に裏付けるのがこれ!
更に1500年代に生きた織田信長が、安土山を阿房宮に見立てる詩を妙心寺の僧侶に作らせています。
これらのことから推測すると秦始皇帝も後醍醐天皇も織田信長も同じような時代に生きていて、後醍醐天皇の先帝は秦始皇帝だったということです。
【祇園精舎の鐘の声】には、官僚達が『政の言う事を聞かない』ことを嘆いていますが。
その官僚達が私達の今の世の中を今も作っているとしたら、ゾッとしますよね!
日本もアメリカも選挙の年ですが。
根本的な所からやり直さないとダメなんじゃないでしょうか。
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