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「続・ポルノグラフィティ」発表の新曲について あなたがいないあさから わたしのいないよるまで 本気出して考えてみた【前編】

私情と前置き

 17回目のライヴツアー「続・ポルノグラフィティ」の終了から1ヶ月が経過しようとしている。私情を挟むと、配信やライヴビューイングではない生のポルノグラフィティのライヴ、通称「生ポルノ」は今回のツアーが初。今までは地道にライヴ盤を収集しては周回して鑑賞する日々の連続だったが、“ファン垂涎”を体現したセットリストに、不実なLaceできつく締め上げられたような気分(要約:最高)だった。

 東京2daysでの「クリスマスプレゼント」(全2種)には衝撃が走ったことだろう。私は初回公演(9/25)・福岡2日目(10/16)・東京2days(12/21,12/22)の計4公演を現地で楽しんだが、初回公演から新曲として発表されていた「メビウス」に加えて「ナンバー」が披露された東京2daysは、会場(そして画面の向こう)の誰もが「Hard Days, Holy Night」を脳内再生する中で発生した“事件”と言って良いだろう。当記事はそんな新曲について書いていく。

 当記事の執筆にあたり、他の考察との比較はしていない。そもそも個人的な感想を含む「解釈」に終始するこの文章に比較材料が必要かどうかも分からない。そんな訳で、主な考察材料はライヴの配信で明らかになった当該曲の歌詞だけである。

 なお、この歌詞考察(という名の解釈)は生意気にも長文になってしまったため、前後編に分割することにした。この前編では主として「メビウス」に関わることについて書いていく。随時私情ならびに感想を挟みつつ、これを読んでいるあなたと一緒にポルノグラフィティの「続」を再確認して、そして良い夢を見て帰りたい。これがこの文章の目的である。


「メビウス」とは“終わった愛の物語”

 結論から述べると以上のようになる。目新しさのない考察(もはや感想)に終始してしまうが、致し方ない。以下、歌詞やその世界観について順を追って述べていく。


主人公は誰なのか?

 これは「ナンバー」にも言えることだが、今回発表の新曲は設定が難解である。否、ポルノグラフィティに“分かりやすさ”なんてものは求めてはいけない。むしろ、我々ファンとしては“分かりづらさ”を求めている側面もあるのではないだろうか。その分、新始動の先陣を切った「テーマソング」の直接的な歌詞には驚かされたことだろう。

 さて、「メビウス」の主人公についてだが、これは端的に言えば、2種類の愛情を擬人化したものだ。まずひとつは詞の中にある、「こわれてしまった」愛情、つまり、「Wasted love」である。この意味では同じく愛情を擬人化した詞世界をもつ「愛が呼ぶほうへ」と対を成す存在であるといえる。まさしく自分自身が「こわれてしまった」が為に言語化がままならず、ひらがなを多用して話し掛けている、といった様子か。そしてもう一つは(後編で詳説するが)、崩壊する前の愛情、言うなれば「愛が呼ぶほうへ」的な愛情である。

僕を知っているだろうか いつも傍にいるのだけど
My name is love    ほら何度でも 僕たちは出逢っているでしょう?

 詞の中には「あなた」と「わたし」が存在してはいるものの、明確に区別された「個人」が2人いるということではない。その手掛かりを今回のツアーで演奏された曲から発見した。


「歩み続ける」

 今回の「続・ポルノグラフィティ」ツアー(以下「続ポル」)でのキー曲といえる存在が、「ウォーカー」である。「新始動」と銘打ったツアーでセットリストに選出された曲(晴一さん曰く「スタメン」)が自身のバンド名と同名のアルバムに収録されているものとは非常に感慨深い。そして私は「ウォーカー」の歌詞に「メビウス」の世界観を紐解く材料があると考えた。

    「ウォーカー」の中で描かれているのは、後に「AGAIN」や「VS」でも見られるような、「過去の自分と現在の自分」という構図だ。歌詞の中では「マイ  ブラザー」、つまり、「古く青い約束」という概念を擬人化したものと「僕」といった言葉で表現されている。概念そのものの擬人化(「愛が呼ぶほうへ」)や、過去と現在の対比は晴一さんの作詞におけるアイデンティティと言って差し支えないだろう。同様に、「メビウス」の中に登場する「あなた」と「わたし」は時を異にした同一人物という可能性が高い。同一人物でありながら、過去と現在という双方の視点を往復することで「あなた」と「わたし」という区別がされている、と考えた。

しぼんだ肺が新しい空気を求めて   一つだけ息をしたよ    はぁ
こんなふうに右左    満足かい?    マイ  ブラザー

    ここで登場する「しぼんだ肺」とは字義通り、呼吸のための空気が不足している様子を表す。「しぼんだ肺」と「しぼんだはい」を、セルフオマージュの形式で掛け合わせているのだろう。「ウォーカー」のもつ世界観は曲調こそ落ち着いてはいるものの、肺に空気を送り込み、歩き続けるという、明るいものだ。一方、「メビウス」は生命活動に必要であろう空気を循環させずに歩みを止めてしまう仄暗さがあり、この2曲は対置されていると言えよう。


永遠と循環

   永遠とは時が“巡る”(経過する)ことではなく、“循環する”ことであり、そこに一切の進展が無いことを暗示する。

もうめぐらせなくてもいいの
しぼんだはいのままでもね

    上記の部分は、「もう空気を巡らさなくても良い。肺は萎んだままでも良い」という状況下にあるだろう。なぜなら、主人公である現在の自分(Wasted love)は愛情を無くして、事切れようとしているためだ。かつて育んだ愛を過去のもの、「思い出」にしてしまうため、これ以上の進展は望めないということだろうか。

あなたがいないあさから
わたしのいないよるまで
メビウスのわのように ねじってつなげましょう
えいえんとは かくなるもの

 「あなた」(=愛情)がなくなった「あさ」(=始まり)、つまり別れを告げられた時から「わたし」(=Wasted love)のいない「よる」(=終わり)までを、ループし続ける「メビウスのわ」として繋げる。その無限の円環の中に思い出を閉じ込めてしまえば、美しかったその思い出は風化することなく「わたし」と「あなた」の間で存在し続けることができる、といったところだろうか。


前編としての総括

 この前編では「メビウス」を「終わった愛の物語」として定義し、ツアーでも演奏され「しぼんだ肺」というフレーズが登場する「ウォーカー」との関連を考えた。それに加えて「思い出」と共に永遠の中に閉じ込められることを自ら望む主人公の胸中に迫った。後編ではもう一つの新曲「ナンバー」と、「メビウス」・「ナンバー」の関連について考えていく。

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