偈頌:優先すること
なぜ私たちは美しい景色を見たときの気持ち
大切な人と会ったときの喜びよりも
イライラや悲しみや苦しみを
繰り返し思い出すことを優先するのでしょう
自分が嫌な気持ちになるのは
わかっているはずなのに
自分の頭のなかに快の体験と不快の体験があります。人間はおそらく、動物の名残として、不快を想起しやすいようにできているのでしょう。自らの命を守るために、良くないことを繰り返し思い出して定着させて、危険から身を守るように。しかし、現代社会では必ずしも危険なことばかり起きるわけでもないし、むしろ安全は太古の昔に比べたら非常に高く担保されているのではないだろうかと感じることが多いです。だったらむしろその環境をしっかりと享受することが大切なのではないだろうか、と感じたのです。そのような気持ちになったときに、「とくに何もないときにも不快の経験を頭で反芻する癖がついている自分はとてももったいないことをしているな」と思ったんですね。嫌なことはいつもたくさんあるでしょうけれども、いいことも世の中にはたくさんあります。自然にいいことを考えられるような頭になれたら、人生は絶対に豊かになります。そう思って、この偈頌を書きました。生きていることがもし安全や生存を守るために危険や不快にフォーカスするのであればそれはもったいない。楽しいことや気持ちが落ち着くほうにフォーカスしたい。そう思いながら最近は生きています。そして、そのように生きるために「呼吸を忘れない」という生き方をしてみると、実は案外難しいことではないのではないでしょうか。人は今この瞬間生きているという奇跡に加えて、過去に起こった素敵なことと、未来に起こるであろう、あるいは起こってほしい幸せな出来事にフォーカスすることができます。これはある種今までの自分の癖を少しずつ直していく訓練なのです。過去も未来も解釈を書き換えることができる。何に焦点を向ければ自分が豊かな気持ちになれるのか、そこに意識を置いてみる。たとえ多忙であっても、外側から見れば不幸が起きていても、そこに意識を置くことは可能なのだと、僕はここ最近体験としてゆっくり訓練をしています。それでも、たとえもし失敗して嫌なことばかり考えてしまう日が来ても、人生はまだたくさんあるのです。いつからでもまた何度でも優先することについて、挑戦すればいいと思うのです。