カレー×TRIP|なぜ人は、カレー屋巡りにハマってしまうのだろうか?(カレーのパースペクティブ #3)
カレー屋さんで夢中になってカレーを食べている時、いつの間にかどこか別の時空へ「トンでしまっていた」ことはないだろうか?
異国情緒に溢れたお店の内装、お店独自のルール、異国の店員さん。そして何よりもスパイスの効いたカレーによる身体への作用によって、カレーは我々を「非日常」へと誘うことがある。
その「非日常性」こそが、カレー中毒者を生み出す理由を考える上で、一つの鍵になっているのかもしれない。
第3回「カレーのパースペクティブ 」では、「カレー×TRIP」をテーマに、カレーがもたらす「非日常性」について対話を行った。
カレーのパースペクティブとは?
カレーについて考えたことのある人なら誰でも参加可能な対話イベント。カレーについて、「対話」を通して様々な角度から探究していきます。
方法論として「哲学対話」のやり方を応用します。哲学対話はディベートでもディスカッションでもなく、「対話」です。
色々なルールがありますが、基本的に何かの結論を出すものではありません。
・ゆっくり考える。結論を急がない
・何を言ってもいい。聞いているだけでもいい
・人を否定したり茶化したりしない
・相手に伝わるような言葉を意識する
・話がまとまらなくても、途中で意見が変わってもいい
・「人それぞれ」で終わらせない
「カレーのパースペクティブ 」は本物の哲学対話よりかなり緩いですが、こういうことを大事にしながら、カレーに関して深く考えていき、そのプロセスを共有しあうものです。漠然としか持っていなかった「思い」を言語化することによって自分を見つめ直すきっかけになったり、カレーに関する考え方がアップデートされたりする、いつも新たな発見があります。
ちょっとハードルが高いかもしれないが、もし興味があったら聞いているだけでもOKなので是非参加してみてください。過去のアーカイブはこちら。
このnoteは、「カレーのパースペクティブ 」プロジェクトにおいて行われた、カレーにまつわる哲学対話の個人的なアーカイブである。
Q:カレー×TRIP
なぜ人は、カレー屋巡りにハマってしまうのだろうか?
話題提供者:田嶋章博さん
(カレーライター・カレー旅/currytrip)
今回の話題提供者はカレーライターとしてご活躍されている田嶋章博さん。東洋経済オンラインで「カレー経済圏」を連載されており、各種メディアにたびたびカレーの文章を提供されている凄腕のライターさんである。
田嶋さんはかれこれ8年くらい前からずっとカレーの食べ歩きを続けている。なぜこんなに続けられているのか。または、続いてしまっているのか。
カレーを食べた時にまれに訪れる、「まるでトリップしてしまったかのような非日常感」がその原動力になっているという。
◆カレーの食べ歩きをする理由として、
・純粋に美味しいカレーが食べたい。
・カレーのスパイスの中毒性にやられてしまった。
・SNSで情報発信をしたい。
・スタンプラリーのような、コンプリート欲
などなどいろいろ考えられるけど、自分的に大きいのが「非日常性」。
◆カレー屋を巡っていると、インドっぽかったり、昔っぽかったり、小説の中の世界っぽかったりと、ちょっとした異界にいるように感じることがある。
◆それは旅先で感じる感覚とも近い。日常にいながら、ちょっとした非日常感を得られる。だから「カレー旅/currytrip」と名乗っている
カレー屋さんでトバされる。ちょっとしたショートトリップ。日常にいながら感じられるちょっとした非日常感。それは、心を強く揺さぶるものだ。
辛いこともある毎日の中で、そういったふと日常から離れられる瞬間があることが、一つの救いになっているのかもしれない、と田嶋さんは語る。
カレー屋さんで食事をする中で、一体どういうポイントに非日常を感じられるのか。お店に入った瞬間にトリップすることもあれば、食べた後に汗だくで扉を開けた瞬間にトリップを感じることもあり、店員さんやお店のセンスが良くて非日常を感じることもあるという。詳しくはこちらの記事をご参照いただきたいが、3つのカレー屋さんでの体験を挙げられていた。
新宿の真ん中で「聖者たちの食卓」をする
/「カレーハウス11イマサ」(新宿)
25席のカウンターで1日1000人がカレーの上を通り過ぎていく、新宿のカレースタンド。老若男女が無言で目の前のカレーに向き合っている光景は、インド・アムリットサルの黄金寺院で毎日10万の食事が無償で振る舞われるさまを収めた映画、『聖者たちの食卓』のシーンと重なる。
「黄泉の国の景色」までがセットのミールス
/「ダルマサーガラ」(東銀座)
ダルマサーガラとは、サンスクリット語で「仏法の大海」を意味する。刺激と細やかな仕事の丁寧さが同居する辛いミールスを食べ、汗を滝のようにかきながら店を出れば、真正面に築地本願寺が見える。お店を出た瞬間に黄泉の国に来てしまったかのよう。
全てが幻に思える世田谷の秘境
/「ボンナボンナ」(代田)
シンハラ語を操り、スパイス床を育て、6つに割れた腹筋をもち精悍な若々しい見た目の「スパイス王子」・影山さん。スパイスに対する情熱は他の追随を許さず、ダムのように蓄えられた圧倒的な含蓄がある。スパイスそのものの知識に限らず神経科学や薬理学の側面からも、スパイスが人体に及ぼす作用を知り尽くしているという。
看板メニューである「薬膳スパイスごはん」は、注文後スパイスを挽くところから作ってくれる。酸味と程よい抜け感があるオリジナルなテイストは唯一無二。
退店時にシナモンリーフにお店のスタンプを押してくれて、それがショップカード代わりとされているのだが、翌日見ると擦れて文字は消えてしまっている。
漫画みたいな人物と、あっという間の夢のような体験。後に残るは木の葉だけ。あの店は本当はなかったのではないか、と思ってしまうような非日常性がある。
そんなカレー屋さんでの体験をもとに、今回の話題提起がなされ、それに関する対話を行った。
・なぜカレー屋に行くと、そうした非日常感、旅的感覚、時空のゆがみ的感覚を得られるのでしょうか?
・なぜカレー屋に行くと(カレーを作ると・カレー活動をすると)、非日常性を感じるのか
・あなたがカレー屋巡りをする(カレーを作る・カレー活動をする)理由は?
対話
向き合ってみても、思うように言葉にならないことが多々ある。
それでも、まとまらないなりに、ポツポツと少しずつ言葉にしていく。
それはまるで、思考に命が与えられているようだ。
自分はそんなふうに、思いが初めて言語化される瞬間に立ち会うことが好きだ。
ここでは、対話の中で出た話題や、それに関して考えたことをいくつか書いてみる。
人がカレー屋巡りをする理由
カレー屋巡りのスタンスは人それぞれ。一つの店だけにひたすら通い続けている人もいれば、異なる体験を求めて違うカレー屋をめぐる人もいる。
スタンプラリーのように行ったお店の数を誇らしげに語ってくる人もいれば、人に会いにいくために同じお店にひたすら通う人もいるだろう。
田嶋さんがカレーにハマるきっかけは駒沢大学にあるピキヌーで、唐辛子中毒のようになり週3~5回は通う時期が2年続いたという。だが、通い詰めるほどに非日常性を感じることができなくなり、それからは色々なお店を積極的にめぐるようになったという。
逆に、とある別の参加者は500店ほどカレー屋さんをめぐったあとどこのお店に行ってもあまり新しい発見がなくなり、それからは同じ店に通い続けるようになったという。
両者は全く逆のようだが自分にとっての非日常を求め続けているという点で共通している。旅に出てしばらくは非日常の風景にワクワクするが、ある程度慣れてくると非日常が日常になり、今度は何の変哲もない繰り返しの毎日の中に違いを見出していく営みにこそ非日常性を感じる、みたいなことになるのかもしれない。
これは自分への戒めなのだが、ある程度カレー屋さんを巡っているとカレーのジャンル分けの地図が脳内にできてしまい、新しく出会ったカレーをトレンドや流れの中に位置付けて自分のわかる範囲に落とし込み、理解しようとしてしまうことがある。
新しくカレー屋さんを巡る基準も、純粋に自分の食べたいカレーではなくって、重箱の隅をつつくような、コンプリートしたい欲で動かされてはいないか?でもそれって、カレーそのものにちゃんと向き合えているんだろうか?
非日常カレーの分類
カレーに非日常を感じる瞬間はまちまちで、お店に入った瞬間に空間だけでトんでしまったり、インド人のチャイのエアブレンドパフォーマンスを見て異国に来たかのように錯覚してしまったり…。
カレー屋さんで感じる非日常も、前回の「心のカレー」のようにいくつかにタイプ分けができそうだ。カレーによる非日常感を試しに3つほど分類してみる。
①二郎的非日常カレー
世の中には特殊なルールや制約のあるカレー店がたまにあり、そのような環境では焦燥感を感じたり、追い出されないか怯えてドキドキしながらカレーを食べることになる。二郎ラーメンに行った時のようなプレッシャー感による非日常という意味で「二郎的非日常カレー」と名付けてみた。
以前あるお店に行った時、「客は入店時に元気よく挨拶をする」というルールを知らなかった故、店主が激怒しお客さんが退店させられたのを見たことがある。その後は料理の味はあまりわからなくなった。こういう気難しい人が作るカレーに限って繊細で美味しかったりするのだが、もう一度行きたいとは思わない。
自分はどちらかといえばこういう非日常感は歓迎しない(というか、後述するようなバッド・トリップの要因になりうる)が、想定外のことが起きるという意味ではこれも一種のスパイスなのかもしれない。
②スポーティ非日常カレー
風呂やサウナに入ると非常にスッキリして、少し大袈裟だが世界観が変わったと言ってもいいんじゃないかというような時がある。
唐辛子などのスパイスには発汗作用があるため、食べ終わると汗を大量にかき、爽やかな風を感じられる。それはスポーツをした後の爽快感にも似ており、スポーティ非日常カレーと名付けてみた。
③異国情緒的非日常カレー
インド人やネパール人、バングラデシュ人がやっているようなレストランでは、店内の内装やボリウッドムービーを垂れ流すテレビなどがそのまま旅した時の思い出に重なって、自分が今どこにいるのかわからなくなってしまうことがある。
こういう異文化に触れた事による非日常感は、「異国情緒的非日常カレー」と分類できるのではないか。それは文字通り、物理的な旅に結びついた非日常感である。
そもそも「トリップ」とは
非日常=トリップ体験としてまとめてしまったが、そもそも「トリップ」とは何なのだろうか。英語で「トリップ(trip)」というと「小旅行」という意味もあるが、スラングでは「ドラッグでぶっ飛ぶ」状態を指すことが多い。
日本語だとドラッグは「麻薬」として粗くまとめられてしまっているが、「トリップ」というのはコカインや覚醒剤などの「ハイになる」興奮剤ではなく、LSDやマジックマッシュルームなどの「幻覚剤」に対して使われる言葉だ。薬物はダメです、ゼッタイ。
幻覚剤は脳の減量バルブを緩めているという説がある。最近の脳科学でも似たような理論があるらしいが、脳は大量に流れ込む情報の中から生存に必要な情報だけを取捨選択できるように進化しており、幻覚剤は感覚が歪んでいるわけではなく、脳の制限が取り払われた状態であるらしい。
カレーによるトリップ感も、スパイスの効果によって何らかの制限が取り払われて生み出されるものなのかもしれない。
ところでトリップにはgoodなものとbadなものがあるというのはよく聞く話である。グッドなら通常では感じられないような多幸感があったりするらしいが、自分で制御ができなくなって恐怖やパニック状態に陥ってしまうのがバッド・トリップである。
では、バッド・トリップはなぜ起きるのだろうか。
ドラッグを摂取する際の基本的な心構えにセットとセッティングというものがある。
セットは「マインドセット」というように、心の状態を指す。心理的なワクワク感を高め、不安要素は排除しておくことが肝心。
そしてセッティングとは、体調だったり、自分を取り巻く環境の事を言う。
そのセットとセッティングが両方整っていないと、薬物によって心の働きが増幅されたときにパニックに陥ってしまう。
この、ドラッグを摂取する際の基本的な考え方をカレーに応用してみたらどうだろうか?
セットとセッティング、というのは何もドラッグを摂取する時だけに当てはまる話ではなく、普段からの生活の心構えとしても有効なのだという。
カレーに含まれるスパイスには、高揚感をもたらしたり、心を落ち着かせる効果や精神に作用する効果がある。だからこそ、それを食べる際のセットとセッティングには他の食べ物以上に気を配った方がいいのかもしれない。
例えばお店に行く前に関連情報を調べて料理の知識を得ておくとか、ちゃんとトイレに行っておくとか、睡眠時間を確保しておくとか。当たり前のことかもしれないが、最大限カレーを楽しむために心を整える。
また、雰囲気のいいお店や特別なシチュエーションでカレーを食べるときにいつも以上に美味しく感じることを「場所出汁が効いてる」とか「シチュエーション出汁がうまい」などということがあるが(言わない)、それはカレーというドラッグによって精神に及ぼす影響をブーストするセッティングと言い換えることもできるかもしれない。
カレーをドラッグだと捉えたとき、そういったセットとセッティングによってカレーが我々を非日常の世界へ連れて行ってしまうというのもそうおかしな話ではないだろう。
もしカレーでバッド・トリップしてしまったとしても、予期せぬアクシデントが起こるのも旅の醍醐味。余裕を持ってカレー旅を楽しんでいきたい。
次回の”カレーのパースペクティブ”
次回は7/18(土)18〜20時に開催となります。
話題提供者はインドカレーサークルがきっかけとなりカレーがきっかけで結婚したまさおさん。新婚旅行はもちろんインドだったそうです。
カレーで結婚したというのは象徴的なエピソードですが、カレー好きはコミュニティを形成しやすく、カレーには人々を結びつける不思議な力があります。
次回はそんなカレーの「人を結びつける力」に関して対話し、考察を深めていきます。
参加は下記からお申し込みをお願いします。