特集スタンリー・カヴェル「趣意文」(吉田廉)【フィルカルVol.9,No.1より】
スタンリー・カヴェルの主著『理性の呼び声』(The Claim of Reason)が刊行される。
ウィトゲンシュタイン研究から映画論まで、カヴェルは非常に多面的な仕事をする哲学者である―荒畑靖宏「日常性への回帰と懐疑論の回帰」(齊藤元紀・増田靖彦[編]『21世紀の哲学をひらく』、2016年)が彼の哲学を全体として紹介している―が、その主著の翻訳はまさに「待望の翻訳」であろう。
後期ウィトゲンシュタイン哲学とカヴェルの懐疑論を扱う古田徹也『このゲームにはゴールがない』(筑摩書房、2022年)が刊行され、同著がずっと近づきやすいものになっただけになおさらそうだろう。
本特集がカヴェルの哲学をめぐる会話に読者が加わるきっかけとなることを企画者としては願っている。
本特集の内容を簡単に紹介しよう。
荒畑靖宏「すぐれて哲学的な概念としての〈セカイ〉」は、カヴェルの懐疑論と「セカイ系」をめぐる言説を論じる。
カヴェルの哲学が明らかにする〈セカイ〉の意味だけでなく、哲学と自伝に内的関係を認めるカヴェルの哲学的方法の実践を学ぶことができる。
佐藤光重「哲学者の内なる私/私の内なる哲学者」はカヴェルによる『ウォールデン』読解を扱う。
『ウォールデン』が哲学の専門化が起きる以前、イギリスとドイツの哲学の伝統が分離する以前のアメリカにおいて書かれたことに着目するカヴェルの読解と著述の含意が鮮やかに取り出されている。
筒井一穂「カヴェルの懐疑主義批判を読む」はデカルト研究者によるカヴェルのシェイクスピア=デカルト論である。
シェイクスピアからハリウッド映画までをすべて「懐疑論」の枠組みで扱うカヴェルの議論を、近世懐疑主義の伝統に置き直す同論考は、カヴェル自身でさえ知らないカヴェルの哲学の一側面を描き出している。
カヴェル「言うことは意味することでなければならないか」は彼が最初に書いた哲学論文の翻訳である。
自伝でもある彼の諸著作の第一巻第一章であると同時に、彼の哲学の精髄でもある。
長大な論文であるため、訳者である伊藤迅亮のご寛恕を賜り、特集では論文前半部のみの掲載となった。
後半部の翻訳については次々号 Vol. 9, No. 3 に訳者解説とともに掲載予定である。
カヴェルはジェームズ・コナントやコーラ・ダイアモンドがそうであるように「哲学研究者にのみ知られる哲学者」だという印象が私にはずっとあった。
彼の名前をみかける機会はここ数年で格段に増えたと思う。
ここ一年で出た本に限っても、朱喜哲『〈公正〉を乗りこなす』(太郎次郎社エディタス、2023年)の最終章「正義をめぐって会話する「われわれ」」では彼のロールズ批判が、池田喬『ハイデガーと現代現象学』(勁草書房、2024年)の最終章「擬似問題」では彼の「懐疑論の真実」という洞察が、『英米哲学の挑戦』(放送大学教育振興会、2023年)の最終章「哲学への懐疑」では彼のスティーブンソン批判が扱われている(なぜかカヴェルは著作のトリに選ばれやすいという傾向があるようである)。
特集全体を読まれた方には、池田喬「アメリカ哲学の体現者としてのハイデガ―ローティ、カヴェル、ねじれた現象学の異境的展開」(『何処から何処へ―現象学の異境的展開』、知泉書館、2021年)を読むことを勧めたい。
特集の各論考の関係を考える助けとなると思う。
吉田 廉 Ren Yoshida
1995年、神戸市生まれ。東京大学人文社会系研究科修士課程修了。同研究科博士課程在学中。日本学術振興会特別研究員(DC1)。専門は行為の哲学と道徳哲学。論文に「行為と解明─アンスコムは「反因果説」ではない」(『哲学の探求』、48号、2021年)、翻訳にG・E・M・アンスコム「ウィトゲンシュタインは誰のための哲学者か」(京念屋隆史との共訳、『現代思想2022年1月臨時増刊号:総特集=ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」100年』所収)などがある。
note掲載のため最低限の修正を加えました。(フィルカル編集部)