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偶像崇拝する大衆読物──『出エジプト記』の一事例より
まえがき
先日、下に示した記事にて、三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』について論じた。それは、三宅という人間が論ずるに値するほど面白かったのではなくて、三宅のような人が存在して、それが曲がりなりにも評価されているという社会現象が、それだけの面白さを持っていたのだった。言うまでもなく、三宅一人がどうなろうと、どうしようと知ったことではない。
三宅の本を取り上げた理由は、一つには、彼女が文学を普及するのに成功しているように見えるからであった。彼女の著作それ自体の良しあしとは別に、文学を普及する役に立つのなら、その点はよくやっていると言えるのではないか。だがそうではなかった。実際には、彼女は文学を普及しているのではなく、むしろ文学のジャンクセールをしていたのだ。文学を擁護し、文学を普及するには、彼女のような文筆家はいない方がよい。更に私は、彼女に限らず、現代の小インテリの問題点を明るみに出したかった。それは要するに、知識の森に遊ぶことを好み、社会の構造を論じはしても、人間と人生について考えないということだ(そこでいう「社会」というのも、極めて生硬なものだ)。本稿では、そこで示した考え方の特徴を、もっと一般化して考えてみたい。というのも、これは、偶像崇拝という古来からの問題と同型であるように思われるからだ。偶像崇拝についてささやかな考察を行うことで、前回の問題を一般化し、もって前回への補遺としたい。ただし、これだけ独立に読んで貰っても構わない。
とはいえ、これで前回の問題提起の全てが立て直されたわけではない。三宅は「批評家」ではなく、文筆家として無責任だという主張が、単なる三宅個人への糾弾に、それゆえ単なる偶像破壊に留まることなく、一つの批評的な問いとして新たに投げかけられるためには、私自身の身において、責任を果たしてみせるほかない。それは、私が今やっているような、ほとんど専ら否定的な身振りによって果たされるものではあるまい(とはいえ腰を据えて批評的な仕事をするにも、このnoteの場は不向きだ)。
本論
シナイの山で、モーセはヤハウェと契約を交わした。ヤハウェは「君は上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの彫像、いかなる像をも作ってはならない。彼らを拝んではならず、これに仕えてはならない」と言ったという。モーセがシナイ山を降りると、人々は金の子牛を祀って乱痴気騒ぎをしていた。モーセは怒り、再び山に登ってヤハウェの許しを乞うた。ヤハウェは金の子牛を作った者どもの命を奪った。『出エジプト記』32章にある、偶像崇拝についての、最も有名な物語である。
この物語を理解するのに必要なのは、二点だ。何故偶像は禁じられたか。そして、何故、禁じられているにもかかわらず人は偶像を作るのか。
ヤハウェは、像を作り、拝み、仕えることを禁じた後で、われは「妬む神」だという。「妬む神」の語は、七十人訳では、出エジプト記に二回、申命記に三回、いずれもほとんど同じ文脈で現れており、いずれの場合も、偶像を拝んだものを憎み、滅ぼすことが同時に語られている。「妬む」というのは、自分以外を崇拝の対象にするものを憎むという意味であろう(日本語の語感からすれば、自分より優先して選ばれた偶像を憎むという意味になりそうだが、そうではない)。「神は偶像崇拝者を憎む」というのは、神の性格についての言表に見えるが、そうではない。これを、人間の側から読み替えることができる。即ち、偶像を作ったもの、拝んだものは、真の神を拝めず、また真の神に許されることもできないということである。偶像を作ったせいで、真の神を見失ったものは、真の神から憎まれている気がするものであろう。神に人格が与えられているから「憎む」とか「妬む」という言葉が出てくるに過ぎないもので、偶像を禁止する理屈自体はプラトンが『国家』でミメーシスを排するのと同じ理屈である。即ち、プラトンによれば、我々の目に見えるもの自体、そもそも、真理ではなく、真理の現象に過ぎない。我々は、そうした現象をよく観察して真理を求めなければならないのだが、詩人や画家はその現象を模倣するのだから、真理から一層遠ざかる。(念の為補足。プラトンは芸術を軽視したわけではない。『パイドン』、『饗宴』等の対話篇では芸術の意義を説いている。)真理から遠い、仮初の現象がたくさんあったら、人々は真理に近づくのが難しくなる。だから偽物を作る芸術家は追放すべし、という理屈である。要は、偶像崇拝禁止も、ミメーシス論も、偽物があればあるだけ本物が埋もれてしまうから、偽物はない方がよい、という理屈である。
単に、偽物は悪くて本物は良いというなら、誰だって、わざわざ偽物を作りはしない。それでも人が偽物を愛してやまないのは、本物を知ることも、本物を知ろうとすることも難しいからである。
古いユダヤの人々は、何故金の子牛を作ったか。「民はモーセが山から下りてくるのが遅いのを見て、民はアロンに向かって迫り、彼に言った、「さあ、我々のために我々を導いてくれる神々を作ってください。何故なら我々をエジプトの地から導き上った人、このモーセが一体どうなったのか、我々には分からないからです」」。人々が、偶像を必要としたのは、自分たちを導いてくれる人がいなくなってなかなか戻ってこなかったからだ。人々が偶像を作ったのは、神を崇めるためでも、邪神を崇めるためでもなく、誰も自分を導いてくれなくて不安だったからだ。ということは、彼らは、モーセを、神の言葉を聞く預言者と見ていたのではなくて、単に安心して身を委ねられる指導者と見ていたことになる。始めから、神は問題で無かったのだから、何か有難そうなものがあれば、それに安心できさえすれば、それでよかったのだ。
金の子牛を祭壇に飾ったアロンは言った。「明日はヤハウェのためのお祭りだ」。気休めのために作られた張りぼての周りを、神を忘れて飲めや歌えの大騒ぎをすることがほんらい、「ヤハウェのためのお祭り」と呼べるはずがないことは言うまでもない。しかし、彼らはまさにヤハウェを忘れているがゆえに、その自分勝手な騒乱を「ヤハウェのためのお祭り」と呼んでしまうことができるのである。人は、本物の代わりに偽物を据えるだけでなく、偽物を本物と錯覚することもできるのである。それは、お金に価値があるかのように考えることに似ている。物の価値は、その時々の状況や、自分の感じ方によって変わるものだから、そういう価値は、価値の現象であって、価値そのものではない。お金は、その、状況によって変わる価値の現象を抽象的に担う偶像である。この偶像自体に価値があるように考えることは、金の子牛をヤハウェと考えるようなものである(金の子牛も貨幣も、代替可能である)。本物を知らぬ人は、一時の不安を逃れるために偶像に縋る。そして、本物を知らぬがゆえに偶像を本物と錯覚する。これが、人が偶像を求める理由であり、偶像が禁じられる理由である。偶像は、不安を慰めてくれるものであり、その甘い誘惑ゆえに、ますます危険なのだ。
偶像には、不安を慰めることの他に、もう一つ有用性がある。それは、布教の容易さである。実際、キリスト教が多くの偶像の力によって、布教に成功したのは周知のことである。布教するとは、神を知らない人にそれを教えることであるはずだが、偶像が神を忘れさせるようなものであるとすれば、偶像が布教を容易にすることはありえない。キリスト教が偶像によって成功した布教とは、単に世界観、考え方、制度、儀式等々を教え込むことであった。もちろん、布教を受けた地域から、信仰者が現れることはあったが、それは偶像のおかげとは言えない。慰安にせよ、布教にせよ、つまりは、偶像は不信仰者に信仰者の振りをさせることにかけては絶大な効果を発揮するのだ。
さて、こうした大衆化の現象は、宗教に関する事柄ばかりでなく、人文科学に関して広く見られる。政治を、文学を、哲学を、大衆向けに分かりやすく紹介する本は、夥しく出版されている。そして、それは大抵、読者に直にものを考えさせるよう促すものというよりは、何か、政治なり文学なり哲学なりの領域を設定して、その領域に読者を引き込もうというような、いわば自分の所属する組織に勧誘する宣伝のような体裁をとっている。そうしたものは、結局偶像崇拝者である。それは、例えば、読者に哲学を語ることなく、哲学者の振りを教えたり、文学を語ることなく、文学愛好家の振りを教えたりするものであって、そういうものによって哲学や文学や政治を知った気になった人が増えれば、哲学や文学や政治にとって重要な問題は蔑ろにされていくばかりだ。半可通は、良かれと思って思い思いのことをするものである。