井伏鱒二『川』を読む(唾玉録 二)
またしても雑談である。
前置き
私は、我が『灯台』同人の他の二人とはかなり違う性質だと前々から感じている。だいいち、二人は以前から小説家を目標のように考え、小説を書くことに喜びを感じ、実際書き続けてきたというが、私はというと小説家になろうと思ったことは思い返せばないではないが、その夢を入れた箱は随分昔に何処かにしまって以来、行方が知れぬので、最近になって小説なるものに手を染め始めるに際しては新たに箱を拵えねばならなかったくらいである。書くものの内容にしても、私は二人のものはちょっと読んだだけだが、ウジウジする人間というようなもの、愚かしく少し愛おしい人間の面白味みたいなものが、よく出ているように思う。私の場合それは苦手だと思っている。二人と私との違いでもう一つ見過ごせないのが、谷垣君は漱石、小此木君は太宰をそれぞれ並外れて愛好しているのに、私にはそれに当たるものがないということである。これはどうでもいいことのようだが、私にはずっと気に掛かっているのだ。だからこの際、一つ宣言しておこうと思う。私は、井伏鱒二を愛好していると。
代表作すら読んではいないから、いずれ誰かをがっかりさせることもあるかも知れぬが、一、二篇でも頬擦りしたくなるほどの作品があれば、その作家を愛好していると言って差し支えないと思う。
ところで、『小説トリッパー』という雑誌に高橋源一郎という人が、こんなことを書いていた。宮沢章夫さんは、横光利一という作家の小説『機械』を十一年以上かけて読んだ、ゆっくり読むことは大切だ、ぼくも鶴見俊輔さんの『「もうろく帖」後篇』をゆっくり読んでいこうと思う、と。次から次へと、急き立てられるようにではなく、ゆっくり読む、たくさん読む必要はない、ということを、雑誌という媒体で書いていることがなんだか妙だが、内容には賛成する。ぼくも、それを試そうと思う。
というわけでこれから、井伏鱒二の『川』を、全集の大きさで毎日一ページづつ読んでいくことにする。しかし全体のタイトルは「唾玉録」のままにしておいて、他のことが書きたくなったら好きに書くようにしようと思う。
井伏鱒二『川』ノート
第一日
まず冒頭を引こう。
私はもうあれこれと述べたい誘惑に駆られる。
まず気になるのは、「まんなかに」、「のほうづもなく」、「のぼらうと」といった、仮名の使い方である。試しに、すっかり漢字に変えたらどうなるであろう。
「その山の中腹には、針葉樹林の真ん中にたつた一つの岩が、野放図もなく大きな瘤になつて飛び出し、遠方からこの光景を眺めると、まるで森の中から頑として黒い色の大なる月が登らうとでもしてゐるかに見える。それを近くに行つて岩の真下から見上げると、岩は今にも転がり落ちて来さうで、誰でもその下敷きになつてしまひさうな気がする。」
「まんなかに」、「のほうづもなく」の部分は、「針葉樹林」の硬さを和らげる役割と、読者の目を立ち止まらせる役割とがある。「針葉樹林」、「まんなか」、「一つの岩」、「のほうづもなく」、「大きな瘤」という並びを見ればわかるように、漢字と平仮名が大体交互に並んでいて、視覚的なリズムを作っている。しかし普通漢字と平仮名のバランスを取ると読みやすくなるものであるが、そうでもないのは、「まんなかに」や「のほうづもなく」は表記として見慣れないからである。だから読者には、これらを一度漢字に変換してから理解するという手間が生じる。さらに、漢字に変換したからとてテクストは平仮名のままなのだから、そこにニュアンスの差はやはり表れる。私の感じ方によれば、それは、主観的な印象を与えるということである。「真ん中」といえば全体を見晴かしてその真ん中と客観的に言っているようだが、「まんなか」といえばそんな全体図は浮かばないで、例えばまさにそこにいる人が「ここがまんなかだ」といっているようでもあり、あるいは上にも下にもずうっと道が続いているからまんなかだといっているようでもある。「のほうづもなく」も同様であって、それを口にするときの驚きがそのまま伝わってくるようである。
「まんなかに」、「のほうづもなく」と違うのは、「とび出し」、「のぼらう」、「見あげる」の場合である。これは漢字が惹起するイメージを避けようとしたのであろう。「飛び出し」といえば軽々と動くもののようであり、「登らう」といえば、恰も蛙か何かが山肌を這い上がるみたいである。「見あげる」の場合について、まず確認しておきたいのは「大きな瘤」、「大なる月」、「岩の真下」、「下敷き」と、「大」の字と「下」の字とが、それぞれ繰り返されていることで、ここから著者が大きな、圧え付けるような岩の迫力を演出したかったことが窺われる。「見あげる」の仮名遣いはこれと軌を一にするものであろう。つまり、「見上げる」の表記が印象付ける上へ持ち上げるような力を排したかったものとみられる。
ようやく内容に入ろうと思うのだが、一日分にしては十分書いたので、明日にする。
第二日
「針葉樹林のまんなかに」と書かれているから、ある程度の標高があるのだと想像される。高山帯か亜高山帯に当たると考えるのが自然であろうから、その地域の気候にもよるが、この山は結構な高さであろう。「黒い色の大なる月」のように見えるという、「のほうづもなく大きな瘤」であるところの「たつた一つの岩」は、それだけ大きく聳えた山肌にとび出しているのであるから、成る程異様な光景である。そんな異様な岩の真下に立てば、下敷きになってしまいそうに思うのは自然である。
全部引用するわけには行かないが、最初は特にゆっくり迫って行かねばならぬから、次の段落もそのまま引く。
「莫大」という言葉は、「莫大な財産」、「莫大な領地」というような、量についての用法しか知らないので、「幹は莫大な太さで」という表現はやや意外であったが、漢和辞典を引くと「これより大きいものはない。このうえなく大きい。非常に大きい。〔孝経〕「父母生之、続莫大焉」」とあって、「これより(焉)大きいものはない(莫)」という意味で、孝経を典拠とする語であることが分かる。「幹は莫大な太さで」というのは、だから、前段落の岩がそうであったようにかなり異常なもの、あるいはもしかすると、かなり異常な描写であることになる。岩の異様さも、松の木の異様さも、光景の異様さと取るか、それとも語り手の誇張と取るか、その点は今のところ読者に委ねられている。
「てんでんに」という表現も余り見慣れないが、どうやら謡曲「道成寺」に「すはすは動くぞ、祈れただ、引けやてんでんに」という用例があるらしく、古いがある言葉らしい。意味は各々ということだ。
この段落で言われている松の木の姿は少し読み取りづらい。まず、「岩の割れめ」とはどこにどういう形で出来ているのかであるが、松の木の根が「岩の割れめから食み出して」、「岩の窪みを捜しあててゐる」とあることから、松の木は割れめの間に開いた地面に生えているのではなく、まさに割れめ自体から生えていると考えなければならない。そうするとこの割れめは、岩の上部に開いていると考えてよかろう。岩の上部の、根を張る土もないようなところから、根を表面に這い回らせて、莫大な太さの松の木が生えているというのであるから、やはり益々異様という他ない。
「自分の捜しあてた窪みに不意に威しつけられ云々」のところは、井伏らしい、ユーモラスな擬人法である。
最後に鷲が登場することで、これまで以上に人間社会から離れた大自然を印象させる。
明日、次の段落を同様に引用して見て、それからやや自由に読み進めようと思う。
第三日
三つ目の段落は以下
ここでまず気が付くのは、「十分間に一リツトルくらゐの比率」、「蘚苔類植物」、「羊歯科植物」という、客観的な表現である。
「十分間に一リツトルくらゐの比率」で湧き出る水は、ちょろちょろ、あるいはチロチロといった具合だろうと思うが、イメージは余りはっきりしない。「蘚苔類植物」、「羊歯科植物」というのも、単に「コケ」、「シダ」というのよりもイメージが曖昧である。それは、どれも、目に見えるものでなく、目に見えるものを何らか別の尺度によって計ったり分類したりした表現だからだ。何故こんな遠回りした表現を使うのであろう。それは、もしかすると、巨大な岩や不格好な妙な松の木の醸し出す非現実的な感じを和らげるためなのではないか。
「十分間に一リツトルくらゐの比率」と言われれば、一リットルの容器を思い浮かべ、「蘚苔類植物」、「羊歯科植物」と言われれば、図鑑や博物館の展示を思い浮かべるから、すっかり現実的なイメージになってしまう。
私は改めて味わってみる。「蘚苔類植物にとりかこまれた水たまりをつくり、それから羊歯科植物の垂れた葉先きを濡らしながらながれ去る。」なるほど、不思議な文である。「蘚苔類植物」、「羊歯科植物」という言葉は「コケ」や「シダ」というのに比べて、生態一般とか、個体群とかいうものを思い起こさせる。言い換えれば、水たまりの一隅とか、一つの羊歯植物の葉先とかではなく、水たまりの全景と、多くの羊歯植物の葉先が描かれているわけだ。
鷲の雛鳥の箇所もまた不思議である。「不思議さうに眼をあけたり」するのは何故なのだろう。だが、それはそう堅苦しく考えることでもあるまい。雛鳥は「不思議さうに眼をあけたり」するものである。そうして我々は「何が不思議なんだろう」などと思わないものである。
ここでは、水たまりを見おろす雛鳥の可愛らしい所作と、雛鳥に見おろされる水たまりが同時に描かれていると考えてよいだろう。雛鳥という視点を得たことによって、やや抽象的な全景に過ぎなかった水たまりが、一つの具体的な風景に定着されるのである。
本作の主人公である「川」の源流が、こうして姿を表した。
ここで改めて、この光景全体の珍妙さを思い起こしておこう。まず岩は、相当な高さの山の表に瘤か黒い月かのごとくに佇立していて、そこから幹だけは他より太い松の木が、殆ど裸の枝を疎らに伸ばし、松ぼっくりをくっつけている。岩には毎年鷲が巣をかけていて、雛鳥はその下にある水たまりをときどき見おろす。水たまりは、針葉樹に囲まれて、周囲には蘚苔類が、すぐ下には羊歯植物が生えていて、少しずつ水を流している。針葉樹、岩、大松、鷲、苔、シダによって成るこの光景は、生命の大きな体系のようなものを思わせるとともに、奇妙なおかしみを感じさせる。
明日からは、段落ごとに引用するのをやめて、面白い部分について語っていこうと思う。
第四日
夕暮れに谷間に降りる鷲について、「彼はそんなに速やかな落下の速度でもつて、どうやら青空の神秘を地上まで持ち運ぶのである」と言われている。これも少し不自然な言い方であるが、内容は難しくなどない。
だが、ここで私は横光利一のことを思い出した。というのも、彼が文壇をざわつかせた奇妙な文体の見本とされる「頭ならびに腹」の冒頭は、「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けてゐた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された。」というもので、この速度を強調する表現が私の中で連想されたのだ。とは言ったものの別にこれを比較すべきだというのではない。だいいちそれには私の横光理解がかなり不足している。それに、この二例は速度の強調以外にはそれほどの共通点はなさそうである。ただ、横光のことを思い出したついでに思い出したことだが、伝記的にこの二人を見比べることは面白い。二人とも明治三十一年に生まれ、大正十二年に最初の作品を発表し、井伏が最初の作品を書き直して「山椒魚」の題で発表した昭和四年には、横光は初長編『上海』の大部分を書いている。井伏は九十五歳の長命であったが、横光は四十九歳の短命であった。
私はこれまで、横光の作品では「蝿」を読んだだけだったが、今「ナポレオンと田虫」を読んでみた。私の持っている文学全集の解説を書いている伊藤整によれば、彼の「印象飛躍法」は、「印象の模様化の面白さのために思考の論理的構成を絶えず崩す」というものであるらしいが、「ナポレオンと田虫」を読むとそれがわかった気がする。「沿線の小駅は石のやうに黙殺された」の場合と逆に、多くの場合、人の行為をあたかも無機物のごとくに不気味に描写しているので、馬鹿馬鹿しくっておもしろおかしいのだが、ものの印象をバラバラにするのだから、どうもニヒリスティックであって、人間の情熱を顕微鏡で観察して「ほら、単なる物理現象じゃないか」と言うのと同じような印象を受ける。しかし横光は単なる冷笑主義者ではないに違いないから、どんなものか今までより興味が湧いてきた。
横光の話ばかりになったが、「ナポレオンと田虫」を読むのに多少の時間を費やしてしまったし、今日はこれで止す。
第五日
昨日引いたところの次の段落は、実に快い感じを起こさせる描写である。
この文章を味わうには何ら贅言を要しないし、私が何を言おうと陳腐にしかならないと思うが、一つだけ明示しておきたいのは「昨日と同じ方角で」という部分で、語り手はそう言うことで繰り返す自然の緩やかな運動の全体を映し出しているのである。
またその次の段落では、初めて人が言及されるから、これも触れておかねばならない。
わざわざ二度繰り返されている「ついぞ見なれぬ」とはどういうことであろう。わざわざそういうからには六年前の三人は見覚えのある人物だったということか。そもそも「見なれぬ」とは誰にとってなのか。それは、きっと人ではなかろう。語り手は、彼じしん大自然の住人であるか、少なくともそれを代表しうる何ものかに違いない。その見なれぬ人物は何ものなのだろう。鎌と棒とという持ち物から推測できる知識を私は持ち合わせていない。しかし、少なくとも同じ道を通って下山しはしなかったことだけは分かる。もしかすると修験者であろうか。いずれにせよ、この橋は昔から三年に一度人が通るようであるから、これもやはり循環モチーフと言っていいだろう。また最後の鷲の描写は、この土地がやはり人のものでないことをはっきりと印象付ける。
多分これ以上書くと読むのに難儀すると思うから、六日目からは稿を改めることにする。ちなみに、『川』は全集三巻の203ページから242ページにあたり、今205ページに入ったところである。
生兵法は大怪我のもと
甚だ僭越な話ではあるが、少し前、青春は過ぎたという感慨を起こしたことがある。『灯台』創刊号に載せた創作は、なんとかそれを表現しようという試みの一つであったが、その試みとして上手く行っているかは疑問である。私はその創作の中に、空回りする理想家を登場させたが、この人物は私の青春の墓銘碑と言って良い。
結局私は、青春は過ぎたという私自身の感慨を上手く表現することができないでいるのだが、そのうちに、「生兵法は大怪我のもと」という言葉のことを考えるようになった。青春とは、ある意味では、大怪我を恐れず生兵法を振り回すことをいうのではないか。だから青春はかくも活力に溢れ、あぶなっかしく、傍迷惑なのだ。私は自分の知恵が成熟したなどと思っているのではない。自分の知恵がそう恃みになるものではないということを知ったのだ。教育とか学問とかいうものの効用、あるいはもしかすると目的の一つは、生兵法を振り回すことの性急さを知るところにあるのではないか。
宮本常一の『忘れられた日本人』にある「対馬にて」では、宮本が村の資料の貸与を願ったところ、談合で決めるからといって一日中、あれやこれやと各々の意見や経験談を話し続けて、その果てに要約許可が降りたという話が紹介されているが、重要な問題はそうしてじっくり話し合って徐々に練り上げて行くべきものであろう。そうした種類の度量と知恵を理想と考えるならば、いまの教育や学問は上手く機能しているとは思えない。特に生煮えの知識や分かり顔の弁論家が跋扈する現代は、この種の忍耐強い古老の知恵に学ぶべきだと思う。