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文学への希望 芥川賞と新書大賞


文学とは何か、批評とは何か。それは定かに言えないとしても、確かに変わらずあるものでなければならないのではないか。そうだとすれば、文筆家たちはもはや文学を信じていないのだ。

現状への焦り

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』が新書大賞を、安堂ホセ『DTOPIA』と鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』が芥川賞を獲り、それぞれ『中央公論』と『文藝春秋』に特集されている。それを読んで、現代の小説家や評論家が思う「文学」やら「批評」ということが、私の知るそれとは別物らしいと驚いた。

文学は今や、単なる娯楽になり、気休めになり、更には現実逃避になった。確かに、本は売れないし、文学はますます読まれなくなってきていることは、憂慮すべきことだ。こうした心配と、焦りが、今の出版界、文筆界の大勢を占めていることは、私のような部外者でも容易に察せられる。しかし、ものを書く者、書かれたものを推薦する者が、焦りに囚われていれば、自らの首を絞めるばかりだ。感動は、焦りからは生まれやしない。

水村美苗の言葉

二つの賞の特集を読んで、私が否応なく感じたのは、この焦りだ。『中央公論』の同じ号には、水村美苗のインタビューがある。彼女は既に『日本語が亡びるとき』ではっきり打ち出しているように、日本語と日本文学の価値についてよく考え、その価値を伝え、守っていこうという、使命感とでも言いうる強い意志を持っている。インタビューでも「日本文学や日本文化というものは、世界の中でもかなり特別の価値を持ったものである。それを、振りかざすのではなく、人類の遺産として重要なものなのだという認識を持って、大切にしてほしい」、「そもそも人が生きていくために、良い本を読むというのは、最も重要なことではないかと思っています」等と言っている。私は、彼女の言葉に素直に共感させられるとともに、多少とも、慰められる思いがした。こういう人はまだいるのだ、まだ、もう少しは大丈夫だと。水村の言葉を、そのまま私の考えとしてもいい。そしてこれは彼女の名においてではなく私の不遜さによって、新書大賞と芥川賞にかかわった人々への問いとして投げかけたい。頼む、あんたがた、文学という大事なものに関っているのだから、それだけの責任を感じてくれないか。文学や文化や言葉の価値をもっとよく考えてくれないか。本を推薦することは、「そもそも人が生きていく」ことに関る責任を担っているのだよ。それだけの、重い、血の滴るような責任は、悲しいことに、感じられない。

芥川賞への疑念

芥川賞については、以前から疑念があった。「芥川賞のすべて・のようなもの」というウェブサイトが、受賞作と候補作、選者、選評の概要をまとめてくれているが、これによってみると、賞の選出の仕方や選評の書き方が、昔と今とでは随分違うことが分かる。特に重要なのは、「受賞作なし」と「触れるほどでもなし」のことだ。かつて、「受賞作なし」とされるのは、そう珍しいことではなかった。それが、いつからなくなったかと遡ると、最後の「受賞作なし」は2011年上半期、もう25回も前のことなのだ。この時、選考委員の宮本輝は、どの作品にも「文学の感動」がなかったと言っている。では、それから13年の間、「文学の感動」を与える新人が途切れずに出現し続けたのだろうか。それから、全ての候補作を満遍なく評する選評は、決して普通ではなかった。かつての選者たちは、思い思いに、「触れるほどでもない」といった感想を漏らして、良い作品に分量を割いたり、文学論に立ち入ったりしていたものだった。選評が、丁寧に全ての候補作に言及するようになったのは、候補作全てが評せざるを得ない面白いものになったからなのだろうか。

決してそうではあるまい。新進作家が飛躍的に面白くなったわけでもないのに、授賞し続け、丁寧に言及しているのだ。それは、授賞される作家にも、この賞を作った菊池寛にも、日本文学の未来にも、何より読者に対して、無責任ではないか。

宇野浩二の希望

私は以前、宇野浩二の芥川賞選評をまとめて読んだことがある。宇野は、いつもいつも、芥川賞に推せるような作品はないと言い続け、時には(多分うるさがられながら)、一人で授賞反対し続けた。それは、菊池寛がこの賞を作ったときの思い、すなわち、新進作家を世に出す、文壇を盛り上げるという目的を尊重したからである。自信をもって良い作品と言えないものに授賞して失敗するよりは、良い作品が出るまで待つべきだと考えたのだ。彼は、候補作の欠点をいくつも指摘するが、それは厳しさではない。彼の「受賞作なし」は、実は、希望に裏打ちされている。彼は言う。「どうしても芥川賞に推せないやうな小説にも、よかれあしかれ、それぞれ、その作者の苦心が、私には、無視できなかつた」。宇野はそういう、優しい人である。更に彼は言う。「いつも、希望をもちながら読むので、その作品がよくない事がわかると、私は、ヂダンダを踏みたくなる程である」。要するに、宇野は、候補作を読みながら、それぞれの「作者の苦心」に目を遣りながら、しかし文学の面白さはこんなものではない、こんなもので妥協してはいけない、という希望を持ち続けたのだ。

そのような、文学への熱い思いを表明しているのは、石原慎太郎が最後なのではないか。例の、最後の「受賞作なし」の、その次の回で石原は選考委員を降りている。そこで、「芥川賞という新人の登竜門に関わる仕事に期待し、この私が足をすくわれるような新しい文学の現出のもたらす戦慄に期待し続けてきた。しかしその期待はさながら打率の低いバッターへの期待のごとくにほとんど報いられることがなかった」と言っている。宇野にせよ、石原にせよ、一見傲慢に見えなくもないが、彼らは、一度も報いられたことがない期待を「期待し続け」たのだ。それは、もっといいものがあるはずだ、という傲慢とは正反対の希望である。希望を抱き続けることは、難しい。

『ゲーテはすべてを言った』の選評

奥泉光と島田雅彦の選評

実際に、今回の選評を見てみよう。私は『DTOPIA』の方は読んでいないから、『ゲーテはすべてを言った』の方をみる。奥泉光の「日本語の小説世界に豊かさをもたらす」という評価と、島田雅彦の「文学研究がミステリーや冒険活劇に転化しうることを実証しており、新手のメタノベルの出現と受け止めた」という評価は、ほぼ共通するものと言って良かろう。豊かさ、新しさ。豊かなだけで、新しいだけでいいのか。

選考委員の中で、特に強くこの作を押しているのは平野啓一郎と川上未映子である。

平野啓一郎の選評

平野は「ペダントリーもここまで徹底されれば立派なものであり、私は若い作者の博覧強記と一種の老成に、大きい才能の出現を感じた」、「「世界文学」の巨大な書庫と現代社会との間の窓が開け放たれ、その風通しを良くしたことは、本作の手柄であろう」と言っている。吉田修一も「小説から書物の匂いがした」と言っているが、いずれにしても、著者が世界文学を読みこなし、それを読者に上手く提示したという評価である。博覧強記、ペダントリーと言えば、ジャン・パウルという小説家がいる。私は一冊の入門書しか読んだことがないが、その入門書に、彼が無数の引用をちりばめるのは、彼があまりに多くの知識を溜め込みすぎて、吐き出さずにはいられないから、言い換えれば、ある種のセルフ・セラピーとして、過剰に衒学的になるのだということが書かれていた。ジャン・パウルが本当にそんな、自分の知識に振り回されるような人だったかは知らないが、『ゲーテはすべてを言った』の作者は、私にはそう見える。しかし実際のところ、溜め込んだ知識を、書くなり話すなりせずにはいられないということは、それを自分の肉体と精神に生かし切れていないということに外ならない。馴染んでいないから、馴染ませようとしてそれを使うのだ。生かし切れていない知識は、死んだ知識だ。死んだ知識をひけらかすことは、その知識の源泉である文学者なり哲学者なりを殺すことだ。平野自身、短い選評の中でヴァルター・ベンヤミンの「暴力批判論」に言及しているが、私はこの種のペダントリーは読者に不親切だと思う。漱石のような共有財と言ってしまえるものは別として、名前を挙げたり引用したりするなら、読者が改めて調べ直さなくてもいいような書き方をするべきだろう。そうしなければ、読者は知らないことを知っているかのような気になったり、読み飛ばしたり、本当に調べ直したりすることになる。知ったかぶりを助長したり、読み飛ばす癖をつけさせたりすることは、読者のリテラシーを下げることになるし、著者の下手な引用のために調べ直す読者は気の毒である。世界文学と現代社会の風通しが、そんなことでよくなるとは信じがたい。平野の言う、ペダントリーの「徹底」とは何か、私には見当もつかない。英和辞書を引けば、pedantry は「学者ぶること、衒学、もったいぶり、しゃくし定規」と出てくる。「徹底」とは「底まで徹する」という意味であろう。しかし、学者ぶることの「底」とは一体何であろう。心の底から学者ぶるということか。だがそんなものは「立派」などとは呼べまい。こういう軽率な表現は止して貰いたいものだ。

川上未映子の選評

川上は、「アカデミズムならびに文学のありかたと延命、それらの真摯さ滑稽さを、慈しみ告発し批評する設定も構成も細部も見事」、「はじめにあってしまった「言葉」というものをどうすることもできないまま現在に至る歴史の普遍性を照らす稀有な明るさがあり」という。アカデミズムならびに文学のありかたと延命云々は、なるほどそう言えなくもないと思う一方で、アカデミズムの現状と、それがどうあるべきかを真剣に考えたようなところは感じられず、文学にしても執着と茶化しばかりが目立って不愉快だった。「はじめにあってしまった「言葉」」というのは、ヨハネによる福音書の、「はじめに言葉ありき」のことを言っている。作中では、ゲーテの『ファウスト』作中で、ファウストがこれを「はじめに行為ありき」と変形する場面が言及されたり、『創世記』で神が言う「光あれ」をもじって「言葉あれ」と登場人物が言ったりする。しかし、ヨハネ伝で「はじめに言葉ありき」と言われる「言葉」とは、余程無理をしない限りイエス・キリストその人としか解釈できない。川上は、イエス・キリストを「どうすることもできない」と嘆いているのか。多分、そうではなく、人間が有史以来「言葉を持った動物」だという意味であろう。とすれば、それを聖書と関係づけるのは不適当ではないか? それに、人間が言葉を持っていることを「どうすることもできないまま現在に至る歴史の普遍性」というのも、やはりよく分からない。人類が言葉に悩まされてきたことは事実だろう。もしそれを意味するなら、それを「どうすることもできないまま現在に至る」と表現するのはどういう心持ちからなのか。言葉というこの厄介なものから解放されたい、そのもがきが歴史だ、とでも言うようである。私には分からない。

小感

小川洋子は、「言葉の先にある空白に落下したような、特別な読後感」と言っている。川上のいう「歴史の普遍性を照らす稀有な明るさ」というのは、これと同様のことを指すのかもしれない。この作の受賞理由があるとすれば、この点かもしれない。しかしやはり私には、この作者の、ペダントリーに見える欲と執着と不安ばかりが目に付いて、ひたすら不愉快だった。ある作家を愛するなら、その作家をわざわざ殺す必要はない。こんな嫌味なペダントリーに賞を与える選考委員たちは、世界文学なんかどうでもいいのだろう、世界文学を尊重しないということは、結局、日本文学もどうでもいいのだろう。誤解を恐れずに言えば、それが私の感想である。

鈴木結生のインタビュー

作者のインタビューにも、少しだけ触れておこう。鈴木は、「空も大地も大いに揺れているような不安だらけの時代を生きてきて、文学の中でもさらに不安を煽られるのは、「もう嫌だな」と思うんですよ。せめて文学には安心を求めたい」という。どんな時代でも、文学は、自らの生を見つめるしかないのではないか。安心があるとしたら、その先であろう。不安なのは現代人だけではない。どんな時代にも不安はあり、人は、とりわけ文学者は、その不安に耐え、見つめてきたのではなかったか。私はこの作者にも、現代人に通有の、不安に対する脆弱さ、堪え性の無さを見る。彼の作品に現れた不安が、読んでいても感染するようである。

新書大賞

新書大賞の方は、選ぶ基準が芥川賞とかなり異なるので、選んだ人々の意見を詮索することは難しい。百人による投票ということだから、やはり、なかなか冷静で公平な判断は難しかろう。この本については、下の記事で既に書いているから、中身には触れないが、こちらもインタビューが載っていて、一つだけ、触れておきたいことがある。


「批評」とは何か

それは、「批評」という言葉の意味についてである。私は先日、「少なくとも小林秀雄以来、「批評家」という日本語には、理想に飛びつかず、自らの生きる世界をつぶさに見つめるという文学者の使命が籠められてきたのではないか」と言って「批評家」の責任を問い、また、小林の「批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語ることではないのか」という言葉を引用した。三宅はインタビューで、以下のように言う。「社会現象を名づけるだけに留まらず、名付けた上で疑問を提示するのが「批評」というジャンルの役割かなと。私が生業にする批評とは、世の中に問いを生み出す営みだと思っています」。また、「純文学からエンタメまで、いろいろな作品の新しい読み方を提示することで、物語を読み解き、楽しむためのリテラシーを広く読者に提供できたらと願っています」。まただ、と私は思う。この人も、『ゲーテはすべてを言った』の著者と同じく、文学を道具か、さもなくばせいぜい乗り物かのように見ている。社会現象を見て、それについて問いを提示するのは良い。しかしそれをするあなたも、社会の一部だということを忘れてはならない。新しい読み方、読み解き、楽しむためのリテラシーの提供、それは独り善がりの好事家の仕事だ。敢えて言えば、必要なのは古い読み方だけだ。そして、それこそが忘れられているのだ。新しい読み方を提示するのは、古い読み方の忘却を助長し、リテラシーを失わせる。要するに、批評家の仕事は、真面目に読んで感動すること、感動した己れを知ること、それについて「懐疑的に語る」ことに他ならない。そうでない「批評家」など、そもそも必要ないし、存在しない方がいい(商業的にはどうか知らないが)。批評は、生業ではなく生き様だ。小林秀雄も、福田恆存も、スーザン・ソンタグも、そうではないか? ものを読む人、ものを書く人、言葉を操る人には責任が伴う。言葉は、恐ろしいものだ。「批評家」なら、言われるまでもあるまい。

実に嫌なものを書いた。もしここまで読んでくださった方がいるなら、感謝と共にお詫びも申し上げねばならない。書いている私自身、胃が痛くなってきたくらいだ。「言葉は、恐ろしいものだ」という文句は、そのまま自分の薬にしなければなるまい。つまるところ、私が言いたかったのは、やはり、最初の水村美苗の言葉に尽きる。真面目に生きよう。文学を、文化を大切にしよう。ついでに、もの書きは読み手に誠実であろう。では、本当にありがとう。さらば。

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