自然と人と (唾玉録 四)
井伏鱒二『川』ノート
第十一日
山に突き出た大きな岩からチョロチョロ流れ出した水が水流を増して、極稀に人の通る古い土橋の下を流れ、遊ぶ子供たちの声を聞き分ける地球儀の老人の傍を流れ、六軒の家が並ぶところに架かる黒い木橋の下を流れた。
いきなり二段落すべてを引用してしまった。渦の描写として、省くわけにはいかなかったのである。この渦の描写は時に説明的で、時に描写的であって、相補的に渦の運動を描き出している。
私は川や海で、水の成す渦の運動をしばらく眺めていたことが何度かあるが、こうした運動は、ある程度まで法則的で、ある程度まで偶発的であるためか、いつまでも見ていられるものである。水でできた砂時計を見ているときの面白さも、これに近いかもしれない。しかしまあ、こんな丁寧な渦の描写がよくできたものである。別に執拗でも長々しくもないが、意を尽くしているという感じがある。私は、自分でこんなデッサンをやってみようという気にはどうもなれないが、これを読むと何度も感心させられる。もし自分がこれと全く同じ描写をする腕があったとしても、書いている内にどうでもいいことを書いているような気がしてくるに違いない。この描写は紛れもなく、渦巻く川の面白い運動と、それをあっちに行ったりこっちに行ったりして見ている楽しさを描くのに成功しているのだが。
その渦ができているあたりの岸の肌は歪な瘤の形をしていて、植物が生えていないが、ただ一箇所だけ「矮小な棗の木が密生してゐる」ところがある。
直ぐ気づかれるように、この書き方はちょっとおかしい。何がおかしいと言うに、これが実際には生垣ではないという事実を仄めかしつつ隠しているかのような書き方がおかしい。生垣というのは大抵土地の仕切りを判明ならしめるために設けるものであって、この棗の木は仕切りでもなければおそらく人の植えたものでもない。それに「いつてもさしつかへない」というのは、厳密にはそうでないがそう言えないこともないという意味でなくて何であろう。だからこそ、「生垣であることをうなづかせる」立札に含まれる「生垣」の語も、これが生け垣であるという事実ではなく、村の人々がこれを生垣と認識しているという事実の方を示すのである。だから、小説制作の順番から言えば、まず村人たちに「生垣」という慣習による通称(広義での誤認と言えよう)を用いさせておいて、ついで語り手がその広義での誤認に基づいた説明をし、その後村人たちの広義での誤認を事実の如く示すということが起こっていることになる。村人の主観を先取りして語り手の主観として示しておくことによって、村人の主観をスライドさせることができるのである。
もう一つ見逃せないのは、立札の内容の不穏さである。語り手は初め、「生垣であることをうなづかせる」証拠として立札に言及しているが、明らかに立札の役割はそれ以上のものである。村人がこれを生垣だと思っているということと同時に、そしてそれ以上に、この生垣に恐怖か、怒りか、何にせよ強い思いを抱いていることも見て取られるわけである。
そういうわけでこの立札のくだりは、井伏の手腕がさり気なく輝いている部分である。彼はこういう、ちょっとおかしい書き方によって、さり気なく特殊な効果を導入するのである。
今日は何だか込み入った書き方をしてしまった。
第十二日
前回言及した立札は、石地蔵に縛り付けられている。
なるほどこれはひどい扱いである。そんな扱いを受けようと、地蔵の方では厳粛な様子を保っているのに違いないから、その様は却って滑稽の度を増すことであろう。
しかし、こうまで邪見な扱いを受けるには一応理由があった。それは「その台石の側面には、当村から二百里も遠方の都会地の名前が刻んである」ということで、余所者の地蔵であったのである。村人たちは、忽然現れた地蔵について「驚くよりも先に早合点した」。つまり彼等によれば「この石地蔵様は、多田オタキの言葉づかひが気に入つて、わざわざ当村までオタキを追ひかけて来たものらしい」というのである。多田オタキはその都会地に十二年間行っていたので、腹を立てた時には都会言葉を流暢に使うという。都会地の地蔵にとって、流暢な都会言葉が魅力に思われるわけはないことも、そもそも地蔵が、恩返しか何かならまだしも、そんな低俗な理由で旅をするわけはないことも、当村連中一同の頭には浮かびはしない。そういう田舎者の暢気な認識を見事に把握していると言えよう。
多田オタキは、吉岡羊太が彼女に手荒なことをしようとした時、こう言ったそうである。
なんとぎこちない言葉遣いであろうか。しかしそればかりに気を取られて、彼女の訴えの内容を聞き逃してはならない。井伏の文章はしばしば、微笑を誘う装いの下に暗い意識を隠す。そもそも、腹を立てた時、というより自分の窮状を訴える時に限って、普段使わない言語を使うのは何故だろう。それは、自分の哀訴が直接的になりすぎるのを避けるためではないだろうか。自分の意識を、自分の訴えから切り離しておきたい、自分の衷心が生々しく曝け出されるのを避けたいという思いの現れではないだろうか。オタキの言葉は、「気のきかない表現方法」ゆえに伝わりづらいけれども、「気のきかない表現方法」を取らざるを得ないほどの苦しみを表しているに違いない。
けれども村人は彼女を理解しなかった。彼女が手荒なことをしようとした男に対して、腕力によってではなく言葉によって抵抗したからというので、「立身出世して首尾よく帰郷して来た女であると無理やりに信じた」のであった。
吉岡羊太のオタキに対する執着は相当のものであったろう。彼はオタキの家の周りを自発的に警備しだしたのである。その時の様子が面白い。
「杜松」というのは、「ネズ」と呼ぶのが一般的であるらしいが、井伏は「むろぎ」とルビを振っている。この呼び名によるイメージの差異を感じる能力がないのは遺憾である。
「紡錘形の月」「真赤に近い色」「青白い光」といった言葉は額面通りに受け取った方が良い。ゴーギャンの有名な逸話で、弟子に「あの木の影は何色に見えるかね」と問うて、「心持ち青っぽく見えます」というのに、「では真っ青に塗り給え」と言ったというようなのがあったと記憶しているが、それは、鑑賞者というものは見たものを勝手に頭の中で緩和する習性があるからだというようなことであったと思う。小説においても、というより小説の場合尚更、描かれたものを現実的になるように緩和する習癖が我々にはある。実際には、紡錘形の真赤な月と、青白い光という光景は、別段非現実的というわけでもない。しかし、とにかく印象的ではある。
第十三日
今日は寝坊したのでお休みにする。
第十四日
こうして思いがけず、例の渦に再会することになる。多田オタキをして自殺せしめたものは不明である。ただ、オタキの家の様子を調べに行った人によって、厳重に戸締りがされており、中は闇夜のように静かであることから、「どうしても、オタキは覚悟の自殺じゃね」という報告がされたのと、オタキのフェルト草履と羽織が、三十間ほど離れたところにそれぞれあったことから、棗の木のところでフェルト草履を脱いで飛び込もうとした後、そのまま上流へ歩いて行って、身投げをしたことが窺われるばかりである。しかし、身投げの動機など、考えられなくなるくらいに、ここの描写は冷たい。自殺という過酷な出来事とは釣り合いが取れないくらいに、描写が即物的でしかも抽象的(こう言ってよければ科学的)であるため、やや滑稽の感すらある。とはいえ村人が悲しむ様子は、やはり淡々とではあれ、描かれているから、悲しい出来事が起こったという印象ははっきりと残る。また、身投げを躊躇って川沿いを歩くオタキの姿もよく想像されるように語られている。その、悲しい出来事が起こったという印象と、身投げに向かうオタキのイメージに導かれて、語り手の語り方によってこれまで隠蔽されてきたオタキの姿が、ようやく浮かび上がってくるのである。思い返せば、これまでオタキのことが直接描かれたのは、「……あたしに危害を加へないで下さい!」という叫びだけであって、それもやはり、厳密には吉岡羊太が言い触らした内容として語られている。明らかに、多田オタキの姿は周到に隠蔽されている。
短いが、時間がないので今日はここまで。
第十五日
飛躍が目立つ面白い箇所である。「仲よし」の件も急なら、「仲よし」を申し込むからずるものでないという理屈も突飛であるし、「泣きながらしやべつては駄目である」というのも突然客観的な立ち位置をやめたような感じがある。近所の年とった女は羊太の妹のなく理由もわからず耕作に出ろと言い、しかも耕作せずに怠けろとでも言うかのようである。何だか無茶苦茶である。
常識的に見れば、「仲よし」の件は、達者な娘だったが泡を食ってしまったという、「達者」の説明なのだが、「ずるもの」の理屈で引っかかってしまって収まりがつかなくなる。
彼女によれば、もし「仲よし」を申し込まない人がいたなら彼は「ずるもの」だということになるのであろう。今、調べた所「ずるい」という言葉には、「怠けた、横着な」という意味があるようだ。なるほどこれならば意味は通る。つまり、「ずるもの」とは、「仲よし」を申し込まない怠け者のことを言うのであった。
「泣けばよけいに気が立つけれど、つらいときには日傭ひの耕作に出て耕作せずに泣き泣き怠けてをれば、たいてい直ぐに一日が暮れてしまふ」とは、たしかに生活の知恵である。そして、随分無駄なく切り詰められた知恵である。
さて、それから、翌日になって、羊太の押入れの天井から多田オタキの日記帳が発見され、彼の評判が悪くなったが、およそ五ヶ月後に棗の木のところで身投げをしているのが発見された。羊太の死骸もやはり、淵の渦によって小突き回されてい
た。崖には石地蔵が立っていたが、例の日記帳によれば、オタキが働きに出ていた時分、毎日お参りしていた地蔵そのものであるらしい。更に翌日、地蔵の手首に結わえられた長い綱を引っ張ると、淵の水底から羊太の妹の死体が上がった。そうして、「間もなく立札が立てられた。」これで、地蔵と立札に関する話は終わりである。
羊太が失踪していた五ヶ月間は、地蔵のある都会地へ行き、それをどうにかして山の上まで運ぶのに費やした期間であったろう。「二百里も遠方の都会地」というから、一里をおよそ4kmとすれば、およそ800kmの距離であり、これは東京−広島間の距離に相当する。広島は井伏の故郷であるから、この山が広島に位置し、「都会地」が東京を指すとは、十分考えられる想定である。その距離を地蔵とともに移動するとすれば、五ヶ月という期間は不自然でない。しかしそうすると、羊太はその間の寝食はどうしたのか、何故そんなことをしたのか、五ヶ月の間じゅう意志は揺らがなかったのか、と疑問は浮上する。オタキが信仰していた地蔵を、オタキの死地に連れてきたかったということかもしれないが、そのために800kmと五ヶ月というのはちょっと正気の沙汰でない。村人が、オタキを追って一人で来たものと理解したのも無理はないのだ。
また、羊太の妹が身投げをした時、地蔵の手首に綱を結わえ付けた理由も謎である。彼女がオタキや羊太と違って、沈んだ時に発見されたのは、正しくこの綱の御蔭であろうが、そうすると、水面に浮かんで渦に小突き回される未来を避けるために、綱を結んだのかもしれない。
川は、立て続けに三人の死体を呑み込んだことになる。これまでにも、六軒並んだ家の端の子供二人もこの川で死んでいるので、川は、死を呑み込むものという印象が刻まれる。
太宰の『人間失格』
太宰は人気である。私にはそれが不思議である。漱石の場合も同様だ。漱石の人気が彼の健全な、常識的な道徳観が人々の道徳観と通ずるからであるとすれば、太宰の人気は彼の人間恐怖、自己欺瞞、弱者気取りの人生態度が人々の人生態度と通ずるからである、ということになるのだろうか?
『人間失格』には、人間恐怖という言葉が何度も出てくるが、それが私には面白かった。人間恐怖が描かれている点が面白いというのではなくて、人間恐怖が実際よく描かれているがゆえに、私の(葉蔵に倣って言えば)人間軽視が照り返されて、相対化されたのである。
葉蔵は常に人間(これは自分をお化けだと思っているから他者を一般に「人間」というので、普通にはやはり「他者」と言ってやったほうが見やすいだろう)の底には何か不可解な、恐ろしいものが潜んでいるように思っているがゆえに、防衛本能のように自分を佯って他者に媚びるのであるが、我が身を顧みれば、私は私にとって不可解な他者の言動なり趣向なりを究極的には等閑視している。(少なくとも今)理解できないものは、理解できないまま調子を合わせたところで上手くいくものではない、特に私はその類の自己欺瞞は不得手であって、すぐに尻尾を出すのが落ちであるから、一歩下がって見ているのが良いと思っている。無視したり蔑視したりするわけではないが、無干渉を心懸けているので、自分の生活の範囲内では結果的に等閑視ということになる。『人間失格』を読みながらそう考えた。しかし、葉蔵は幼い頃から恐怖を感じさせられるような経験を積んできたのだから、私とは別で、私は葉蔵の人間恐怖を尊重しなければならない(それは結局傍で腕組みをすることであるが)。
しかし、人間恐怖は人間恐怖として、自己欺瞞の方は果してどのくらい人間恐怖と関係があるのか。というのも私が我が身に異質なものを感じるもう一つの点は、冒頭に語られる装飾と実用性の話にあるからである。葉蔵はとにかく装飾を喜ぶ。実用性に無関心である。地下鉄を見て、葉蔵は「風変わりで面白い遊び」だと思っていたが、私は何故こんな大袈裟な不自然なことをするのだろうと思っていた。私は人為的なもの都会的なものを好まないが、葉蔵は逆である。そして、自己欺瞞、即ち道化の仮面をかぶる事は、正しく人為的に、自己を飾り、演出することである。だから、葉蔵が道化を演じて自己を佯るのは、人間恐怖による自己防衛であるだけでなく、彼の趣味から発した振る舞いでもあるのだ。
人為的なものを好むかどうかというのは、人間の好悪の中でも相互理解の難しいものだと思う。人々の間で起こる論争や対立の殆どはこれが一因となっているのではないかと思うくらいである。
私は自分が田山花袋を始めとする系統の作家たちに親しみを覚え、漱石や太宰には打ち解けられないことを、何故だろうと不思議に思っていたのだが、一方が面白い物語を作ることに価値を置き、他方が「面白く」「作る」という作為性から自由であったか、少なくとも自由であろうとしたからだと言っては、余りに単純化が過ぎるだろうか。
私は、上手く楽しめない本を読む時、途中から読む気を失くし、一先ずそこまでの感想をまとめると、もう一辛抱する気が起こる、ということがある。今回もそれで、上のは第二の手記まで読んだ感想である。全部読んだら書き直そうと思っていたが、面倒になったし、改めて見ても直すべき所が分からないのでそれはそれとして残す。
確かに良い小説に違いないが、読むのに苦労する。葉蔵の境遇を痛切に感じるために、葉蔵の内面を辿ることは必要なのだろうか。葉蔵の思考過程を追うのは不愉快で退屈なので、それがない方が却って葉蔵という男の輪郭がくっきりと印象されるのではないかと思うのである。いい小説であっても、面白く読めないところはどうにも残念である。太宰は、こういう非人間的(と「はしがき」の語り手は感じている)人物の内面を描きたかったのだろうか。描いていて面白かったのだろうか。それともその内面描写を読者に読ませたかったのだろうか。そこのところが、どうも、よく分からない。
井伏鱒二の書く太宰の話などを読んで、どうやら私は「はしがき」の「私」を真に受けすぎていたかもしれないと思った。やはり、葉蔵もまた、太宰自身の反映として理解しなければならないのだろう。だとすると、上に挙げた疑問は的外れである。
優れた作家であるとはいえ、こんなに読み辛く、退屈で、異常と言っていいくらい妙な習癖の持ち主が、今なお読者を得ているのは、私には不思議である。
それから、私はいくつかの太宰の作品や、福田恆存の太宰論なんかを読んだ。福田は、太宰が狭い主観に閉じこもったようなところがあると指摘していて、やはりそうなのかと、しかしそれは織り込み済みで良いところを探さなければならないのだと、思った。福田の太宰論は、大宰の生前と死後にそれぞれ書かれていて、そこでの意識的な態度の違いなどは、福田の真面目さがよく出ていて面白いものであった。
私は、多少必要を感じたり、強く好感を持ったりした場合でなければ読書に入り込めないタチであるので、太宰は可哀想で、やさしくて、私と気が合わない人なのだろうと思ったまま、しばらく敬して遠ざける(近頃この言葉が誤用されているのを見るが、ここでは文字通りの意味である)ことになりそうだ。また、時が来たら他の作品とともに、『人間失格』も読み返してみたいと思っている。