新自由主義って定義ねえだろうが嘘つくな。
2000年代初頭は激動の時代だった。平成は振り返れば日本は災害とテロの時代であると思う。その中でも小泉純一郎政権は構造改革を御旗に掲げ、政治の凝り固まった既成権限と対峙した政権であった。派遣を解禁し、非正規雇用が増えたという論調が紙面を席巻したが、現実は今まで職にすら与れなかった無職やニートの人らを市場に呼びおこしたのが現実である。
いきなり働かなかった人を正規では雇えない。それは技術的に無理というものである。まずは非正規という形から雇用し、技術と経験を身に着けてチャレンジしていく枠組みを作っていくことが肝要だった。その点人材派遣を悪用し、人を使いっぱしる悪徳ブラック企業も出たのも勿論事実である。それを是正して、雑草を刈り取り、健全な市場を取り戻すのが政府の仕事だ。
筆者は小泉政権を語る際、新自由主義を取り入れ、格差を日本にもたらしたという批判には辟易している。雇用のグラフを見ても、小泉政権以来回復の起点となっているのは資料を見れば分かることだ。そもそも新自由主義とは何だ?競争を是とし、市場原理に委ね、政府の役割を減らしていくという曖昧模糊なまことしやかな定義が並ぶが、どうにもハッキリしない。
小泉政権といえば郵政民営化と道路公団民営化だが、民営化は市場原理をもたらすのが大事ではなく、政府の規制監督権限とそれと癒着する一部の企業を削り取ることが主眼である。本当のガンは規制監督権限に群がる魑魅魍魎の企業法人たちである。それは日経の記事にもなったが、なぜか当時のテレビ報道では全くと言っていいほど触れられなかった。いつの間にか論調として、その効用は無視され、競争原理というパワーワードにすり替えられてしまったのが現実である。
その当時から財務省もバランスシートを作った。借金30兆円は大した事ないという小泉総理の言葉の裏付けをすることと、IMFの日本への財政危機の指摘の反論のためである。日本の債務以上の資産を政府は持っているという強力なファクトは小泉構造改革を後押しすると同時にその後の財政出動の道筋を確保していったということが言える。負債だけに異質に注目し、財政危機を煽る財務省のやり口はその根拠の薄弱さを露呈することとなった。
政治は常に利権に群がるシロアリとの闘いである。それを黒い幕で覆い隠し、議論を扇情的なパワーワードで過度に演出するのは果たして国の為になるのか、そういえるのか。敵だ味方だと叫び続けるつもりはない。しかし、今までも利権を貪る既得権益者は大勢いた。無論天下りする官僚もそれに当てはまっていた。事実として、今般の岸田政権の規制改革というフレーズを施政方針演説から除外したそのやり方は、シロアリをのさばらせるという事を放言したようなものである。36兆円の補正予算も実際のところは真水で言えば大したことはない。
誰のために戦うのか。政治は敵を見失ったら、モメンタムを失うという事実がある。協力しよう、話し合おうは政治の本質ではない。押し通す、やり抜く、責任を取るのが政治の、いや総理大臣の本懐ではないのか。それをもう一度世に問い直したい。