世に「棲む」私
『世に棲む患者』という精神科医の中井久夫さんの書名が心に響くのは、それが私たち患者の存在様態をいくつか言い当てているからだろう。
私のような患者は、もう世の中に普通に「住む」ことはできない。社会のルールは個々の病人を考慮して作られてはいない。私自身、自分はもう1/3くらいは社会的な意味での「人間」ではないと感じている。
人間ではないものが人間に理解を求めても仕方がない。
それでも生きていくためには、社会の仕組みの中で利用できるところは利用していかなければならない。だから多くの病人は、したたかに、あるいはひそやかに世の中に「棲みつく」。
柳田國男の『遠野物語』
このことを考えていて、ふと柳田國男の『遠野物語』に出てくる妖怪たちのことを思い出した。
山人は「妖怪」と「人間」の境界にある存在として描かれている。山人は「常人とは異なる」存在として描かれる。彼らは超人的な身体能力を持ち、不思議な習慣を持ち、そして何より、里の人々の生活空間とは異なる「山」という空間に住んでいる。この「異なり」が、語りの中で次第に「異形」へと変容していく。
山人たちは、里の人々の社会の中に「住む」のではなく、その周縁に「棲む」存在として描かれている。完全な人間でもなく、かといって完全な非人間でもない。そんな境界的な存在として描かれる彼らの姿は、現代の私と重なって見える。この「部分的な非人間性」という認識は、私の自己認識に近い。
患者も、制度を利用しながら、自分なりの生きる場所を見つけようとしている。それは決して理想的な状態ではないかもしれない。でも、現実的な生存戦略だ。
「人間では無いものが人間に理解を求めても仕方ない」というと諦観のように聞こえるが、同時に一つの解放でもある。柳田が描く妖怪たちも、人間社会からの理解を求めているわけではない。むしろ、独自の生存領域を確保しながら、時に人間社会と接点を持つという在り方を示している。
社会の主流から外れた存在が、いかに生存空間を確保し、いかに社会との関係を築いていくのか。完全な理解は望めないが、独自の生存領域を確保しながら、時に社会と接点を持つ。このような視点から見直すことで、新たな生の可能性が開けないだろうか。