雑記帳41:システムから個へ
連休に「チッソは私であった」を読んだ。しばしば引き合いに出されていたので、ずっと気になっていた。
私にとってこの本は、直射日光のような強いインパクトをもつものというより、これほどまでに当事者性を突き詰めてきた人がそこにいるということに気づいた時、それが月の光のように、私の当事者性を照らし出そうとしてどこまでも逃さない、そんな静かな迫力をもつものだった。
著者の緒方正人は水俣病被害の当事者としてチッソや国を相手に訴訟等の運動を率いた人で、逮捕されても運動に身を投じてきた人だった。しかし、ある時を境に運動から離脱した。
河合隼雄曰く、個別を突き詰めれば普遍に通ずる。緒方の個別的な問題も、とことん突き詰められた結果、私たちの普遍的なテーマとなって迫ってくる。本のタイトルに倣えば、さしづめ「緒方正人は私であった」ということになる。
その翌日、映画「生きるliving」を観た。黒澤映画のリメイク版だ。ある先生から感想が届いていたので、時間を作って観ようと思っていた。(以下、ややネタバレ)
主人公のウィリアムは役所に努める公務員。課長として仕事を淡々粛々とこなし、決まり切った流れに身を置き、感情を揺さぶられることもない。ある意味では、システムが服を着て歩いているような人物。
ウィリアムはガンの宣告を受け、自分の命が長くないことを知る。生きるということがわからなくなったウィリアムだが、ある若い女性との交流を通じて、「生きることなく人生を終わりたくない」と思い至る。そして、役所の固定的なシステムを乗り越えて、「個」として一つの仕事を成し遂げる。
不思議なことに二つが重なり、共振を起こした。
「システム」と「個」・・・人として、心理臨床家して、これはきわめて大きなテーマだと思わずにいられなかった。
システムは私たちの生活のあらゆるところに存在している。
政治やビジネスの世界では有形無形のシステムが無数に存在しているだろう。今、そのシステムを運用する潤滑油は「忖度」なのかもしれない。忖度は相手の気持ちを察することだが、その実態は、相手の「個」を恐れ、かつ自分の「個」を封じることによって、コミュニケーションを空洞化させることである。心理臨床家も相手の気持ちを察するが、決定的に違うのは、徹底して相手の「個」を尊重し、精緻に受け取ろうとする点であり、そのためには、生身の人間として、心理臨床家自身の「個」が場に参画することを必要とする点である。
いっぽうで、心理臨床の中にもシステムはある。例えば、法制度。あるいは、それぞれの職場にある支援のルールや流れ。明文化されたものもあれば不文律もあろう。さらに、心理臨床の理論体系や技法論もシステムとなる。それらのもつ論理・アルゴリズムによって心理臨床におけるコミュニケーションは枠づけられ、規格化される。その結果、必要な人に支援が届けられることが保障されるのかもしれないし、誰にでも最低限の支援が保障されるのかもしれない。しかし、それらは「個」を押し潰しもするだろう。ブルドーザーが道の凸凹をなくし、地面を均一にするように、クライエントの「個」や心理臨床家の「個」を圧殺する力を内包している。
「面接構造」も一つのシステムである。伝統的な精神分析は、面接構造があることで、クライエント独自の心の世界、つまりクライエントの「個」が浮き彫りにする(典型的には転移)という仕組みを重視する。そして、そのために、分析家は自身の「個」を介在させるべきではない。面接者は中立性と匿名性をまとい、システムの一部になりきる必要がある。しかし、それはある種枠づけられた、もっといえば硬直したコミュニケーションを生み出しているかもしれない。
「システム」と「個」は、私たちの生と切り離せないテーマであり、私たちの生きにくさである。この軋轢を一身に背負った人と出会うのが心理臨床家であるし、その関わりの場では、心理臨床家は繰り返しその軋轢と出会い、自分のテーマとして呼びかけられるだろう。じっくり考えてみる必要がありそうだ。
少なくとも、私は、より「個」の方へと進んでいきたいと思うところである。(W)