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関西の生糸が集まる神戸生糸精査所
綾部で製糸会社であるグンゼの歴史を調べていたら、綾部など京都兵庫の山間部で製造された生糸は、神戸港へ集められ、海外へ輸出されていたと知り、気になって神戸港の旧検査所を訪ねてみた。
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三宮の駅を降りて、港に面した倉庫街を目指して歩くと、KIITOが見えてくる。
KIITOは、2012年に開業したデザイン・クリエイティブセンター神戸のことで、図書館や企画展示場などの文化センターとして活用されている施設だ。
KIITOの建物は、かつて旧市立生糸検査所として使われていた。1927年に開業した検査所は1980年に閉鎖し、その後30年以上経って、デザイン・クリエイティブセンター神戸として生まれ変わったのだ。
かつて検査所であった証として、今でもKIITO2階には検査所に関する常設展示がなされている。実際に検査所で用いられていた検査機械を間近で見ながら、神戸港と検査所の歴史を学ぶことができるようになっている。
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1895年:生糸の品質向上と流通円滑化のため生糸検査所法が成立
1896年:横浜と神戸に生糸精査場を作るが、1999年に一度閉鎖
明治維新後に、生糸の輸出港として日本では横浜と神戸が開港された。しかし、上記年表にも記載の通り、神戸の精査場は開所からわずか3年後の1999年に一度閉鎖をしている。これは関西の生糸市場は未熟で、生糸の生産量が追いついていなかったためとされている。綾部でGUNZEが創業したのは、1896年で、それまで京都周辺は機械式製糸が導入されていなかったことから、輸出品としては品質の悪い生糸の産地だった。手作業で製糸されていた時代は生産量も少なく、関西周辺の生糸が集荷される神戸港はまだ生糸を世界へ送り出す玄関としては品質も生産量も未熟な状態だったのだ。
1923年:関東大震災で横浜が壊滅すると、神戸の精査場が再開。
1925年:日本絹業博覧会が神戸で開催。
1927年:旧市立生糸検査所が竣工。清水英治が設計(御影会館と同じ)。
1932年:新館の旧国立生糸検査所は尾塩彰(旧移民収容所と同じ)が設計。
しかし、1923年に関東大震災が発生したことで、それまで生糸の独占輸出港であった横浜港が壊滅状態になり、神戸港からアメリカ向けの生糸の輸出が開始されることになった。最盛期には3割が神戸から輸出されるようになった。グンゼも創業から30年以上が経ち、生産量は伸び続け、1902年からは米国の織物メーカー、スキンナー商会への特約販売を開始している。播磨や丹波地域と神戸港を結ぶ、山陰線は1889年に、播但線は1894年に、福知山線は1899年、加古川線は1913年に開業。生糸輸送の要となる鉄道網も次々と整備され、生糸の輸出港としての神戸港は1923年以降を機に成熟期を迎えた。
明治初期は品質の悪い生糸の産地だった関西で初めて、1925年に日本絹業博覧会が神戸にて開催された。これは関西の生糸産業と生糸輸出港としての神戸港が成熟していたこと示す。さらに、1927年には御影会館を設計した気鋭の設計士清水英治による設計で生糸検査所が竣工。続いてその5年後には新館も竣工。1920年代以降、生糸の生産が勢いを増していたことが伺える。
1950年:生糸輸出量は減少し始める
1980年:検査所閉鎖
ところが戦後になると、合成繊維の普及もあり、生糸の輸出量は1950年を境に減少を始める。1980年には検査所も閉鎖し、建物は別の用途で使用されるようになった。
今では、デザインクリエイティブセンターとして利用されている検査所。生糸の検査場が不要になったのは、お蚕から生糸を「創り出す」営みがほぼ絶えかけてしまったからだ。その絶えかけている営みの名残から、新たに何かを生み出す場として生糸検査所は生まれ変わっている。
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生糸検査所では、生糸の水分量や強度を調べ、不合格品の選別やランク分けがなされていた。これは生糸が輸出商品として世界に流通する以前は、あまり存在しなかった工程である。
商品として世界レベルのクオリティを担保し、世界市場で流通させるためには、当然必要な工程であると思う一方、品質差異の少ないことが条件となる「工業商品」として生糸が生産され始めた時代性を表していると感じる。非常に近代的な工程である。
繭の段階、糸になった段階の2段階にわたって製品チェックされる生糸。不合格品とされた生糸はどこに運ばれていったのだろうか。クズ繭(商品にならない繭)は、繭の段階なので真綿にして他の製品に作り替えることも可能だったはずだが、糸になった段階で不合格となった2流の生糸はどこにいったのか、何になったのか、気になった。
以上、神戸港編でした。