日本の常識は世界の非常識【読書感想文】
最近読んで面白かった本を紹介する。
今回の本は伊藤雄馬『ムラブリ』
きっかけ
日経新聞の書評欄で紹介されていた。文字も暦も持たない「ムラブリ」の文化に興味を持った。
どんな本?
言語学者である著者が少数民族「ムラブリ」の研究成果をまとめた本。かと思いきや、それ以上の内容だった。。。
ムラブリ的な価値観に染まっていく著者の生き様を知れる本でもあった。著者は大学教員を捨てて独立研究者になり、定住生活を捨てて自ら居住用テントを開発し、洋服を捨てて雪駄とフンドシを着用し、雑草を食べるようになったらしい。ものすごい変わりよう。
これらは中央集権や所有を嫌い、徹底した自立を志すムラブリ的な価値観に基づいた暮らし。稼いだカネに物を言わせて生活する「経済的自立」とはワケが違う。衣食住を文字通りに自らの手で調達する暮らしだ。
感想
言語には世界を規定するパワーがある
「言語」の威力を痛感させられた。良くも悪くも、言語は人生観を規定する。著者はムラブリ語を研究する過程で、ムラブリ的なモノの考え方をするようになっている。
私は日本語を通じて世界を体験し、モノを考えている。つまり「日本語」というフィルターを介して世界を見ているのだ。にもかかわらず、そのフィルターの存在をあまり意識していない。
他言語を学ぶと表現が豊かになる
感情や思想は言語化した途端に個別性が失われる。たとえば、ご飯を食べている時に自分が「おいしいね」と言い、友人も「おいしいね」と言ったとする。この2人の「おいしい」は同じ部分もあるが、完全に同じとは限らない。特に、同じ日本語で会話する場合は「おいしい」の差異に着目しない。
言語が違えば自ずと差異に意識が向く。"funny"と"interesting"はいずれも「面白い」と訳されるが、前者は「笑える面白さ」で後者は「興味関心をそそる面白さ」を指している。これを踏まえると「この本、面白かったよ」と言われた時に、どちらの意味合いで発言しているのかを意識できる。
日本語以外の言語を学べば、自身の感情や思想に対する解像度を高められるし、会話においても正確に意思疎通ができる。
幸福観すらも言語が決める
ムラブリ語において「心が上がる」は「悲しみ」や「怒り」を意味し「心が下がる」は「嬉しさ」や「楽しさ」を意味する。日本語(というかメジャー言語)の話者からすると「上」はポジティブで「下」はネガティブな意味合いを想起する。ムラブリは「興奮」にあたる語がなく、感情の起伏が少ないのが特徴らしい。
ムラブリは感情の湧き上がりをネガティブに捉え、平穏をポジティブに捉えているのかもしれない。日本語などのメジャー言語を通じて世界を見ると、心躍る体験を幸福と捉えがちになる。「背中に太陽の陽が当たって暖かい」とか「そよ風が心地よい」とか、全く興奮しない体験にも幸福は宿っているはずなのに。
ムラブリの常識は、日本人の非常識?
ムラブリは日本人から見ると非常識な特徴を有する。しかし、それらはムラブリにとっては常識。一方の常識が絶対解ではない。たとえば、ムラブリにはこんな特徴がある。
例1:明日のことは知らない
「明日、空いている?」と聞いても「それは明日の自分にしかわからない」と返される。仕事に行くかどうかも当日の朝に決める。仕事しないと自分が困るのなら仕事に行く。気が乗らなければ行かないし、誰もそれを咎めない。
たしかに「一年後、空いている?」と聞かれたら困惑する。ムラブリにとっての「明日」は、日本人にとっての「一年後」くらい遠い時間なのかもしれない。
例2:公平ではなく平等
ムラブリは敬老の文化が薄い。実際、ヨボヨボの爺さんが丸太を運ぶ傍ら、青年がうんこ座りをしてタバコを吸っているらしい。ムラブリでは、年齢に関係なく自力で生き抜くのが常識のようだ。
一方、獲物の肉はキッチリと分け合う。ムラブリは独占を嫌う。モノだけでなく、知識の独占も嫌う。ゆえに分業性をとらず、家も、カバンも、ベッドも自力でイチから作る。
分業は、その効率性ゆえに社会全体を発展させる。しかし、分業制は知識や技術の独占と不可分の関係にある。事実、私には家を建てるノウハウも、衣服をつくるノウハウも、野菜を育てるノウハウもない。
まとめ:日本だってヘンな国
当書はムラブリの特殊な暮らしぶりや価値観を書いた本だ。しかし、それは日本の特殊性でもある。多くの日本人は、お金を払って専門家に頼ることでしか生活できない。また、中長期を見据えて行動する計画性や、敬老の文化が、世界レベルでは常識とは言えないこともわかった。「日本は普通で、ムラブリは変わっている」だなんて感覚は捨て去った方が良い。
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