良いエッセイをかけるように

さくらももこさんの「さくら日和」というエッセイを読んだ。

ちびまる子ちゃんには、毎週日曜日にお世話になっていた身だが、さくらももこさんのエッセイを読んだのは初めてだった。

先日ふらっと入った古本屋さんで、手に取りやすい位置にたまたま置いてあった、目に馴染んだまる子ちゃんのキャラクターが飛び込んでくるような表紙のその本を、何の気なしに手に取ったのだった。

何の気なしにというのは少し語弊がある。さくらももこさんの訃報には、胸を痛めていた。まだ50代の若さで、乳がんでお亡くなりになったというニュースを、どうにもできない悲しみの中で聞いた。

亡くなって、というきっかけで本を手に取るのは、本当はとても悲しいことのように思えるけれど、それでも心に引っかかっていたのだから仕方がない。私はさくらさんのエッセイを、亡くなってから初めて読んだのだった。

このエッセイには、「乳がんで若いうちに亡くなった」というエピローグをもって読むには、少し辛いエピソードがいくつか出てきた。

例えば、ある優秀な人材を自社にスカウトするために、さくらさんが説得にかかるのだけれど、そのときに「もし私が死んでも、遺作フェアをやれば、印税が入って、社員が路頭に迷うことはない」というような落とし文句を使う。

また、さくらさんは健康オタクだったようで、色々なエッセイに、自他共に認める健康を誇っていたということが散りばめてある。

「死」をあまり意識していないような、意識してあえて遠くにあるものと書いているような、そんな距離感で、ある種切ない気持ちになりながら読んだ。全くこんな前情報のない状態、つまりさくらさんが健康だったときに、エッセイを読んでいれば、もっと印象は違っていただろう。けれど、実際にはこの「死」についての意識が、とても印象的だった。

このあっけらかんとした、「死」の扱いは、なんなんだろうか。諦念なのか、なにかしらの信念を見つけられてのことなのか。考えながら読んでいたけれど、やっぱりわからなかった。 


さて、さくらさんのエッセイは小気味いいテンポの語り口で、生活の色々(ありふれたことから、普通ならちょっとやらないだろうというようなことまで)を表現してある。とても面白かった。良いエッセイだと思った。

さくらさんの、おどけたような、それでいて少し冷静でおかしみの溢れるエッセイを読んで、「さくらさんの感じ方や考え方が、きっと、そのまんま正直に描かれているような気がするからこそ、このエッセイは面白いんだなぁ」と感じた。

私も拙いけれど、エッセイを書く身なので、良いエッセイとは何か?ということを、常々考えているのだけれど、「さくら日和」を何度か読み返すうちに、ひとつの仮説ができた。

良いエッセイとは、「書き手の感情や思考、目線がそのままにつたわってくるようなエッセイ」である。

なんだか言葉にするとありふれているのだが、個人的には少し衝撃的な発見だったのだ。

さくらさんのエッセイに描かれている生活は、必ずしもそれだけで面白いものではない。きっとビデオで隠し撮りしてこっそり覗いても、エッセイほど面白くはないだろう。

けれど、さくらさんのシニカルな物事の捉え方や、合理的なところ、多少の恥をものともしないような一面や、馬鹿らしいことを全力でやって、それを全力で面白がることのできるというような性格(個人的な捉え方です)を通して生活が描かれているからこそ、面白い。

エッセイというのは、ただの生活の記録(事実)がベースにあって、そこにどんな風に自分の感情や思考を挟んでいくのか、頻度・表現・タイミング、全てが自由だ。事実の描写ですら、表現の仕方によって無数の描き方が存在する。言葉や文章の選び方で、エッセイはどんどん変わっていって、どんどん自分らしいものになる。

その自分らしさ、というのは、例えば「姑息」「嫉妬深い」「マイナス思考」のような、ともすれば実生活では嫌われがちな性質であっても、客観視できてさえいれば(あるいはできていなくても)、その人のエッセイの魅力になるのではないだろうか。

だから、自分を良く見せようとしたり、感情を脚色したりする必要はなく、自分のそのままの性格をどうにかフィルターにして、そこを通した文章を書くことが大切なのだ。これがどうにも難しいことなのだけれど。

明日から、できるだけそれを心がけてみようと思う。誰かが私のエッセイを読んだとき、私らしいと思ってもらえるような、そんないいところも悪いところもひっくるめた私らしさに溢れたエッセイが書きたい。


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ぺちこ
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