流れるごとく書けよ、女詩人
北園克衛は1930年代にあらわれた一群の若い女性詩人たちの中から特に数名の名を挙げて次のように述べています。
この中でもとりわけ期待を寄せられ、二十歳にして北園から「完全な詩人」と称された左川ちかは近年再評価の機運が高まってもいるそうです。
北園克衛なども同じですがイメージの飛躍というよりも、それを捉える視点の方が意図的に錯綜させてある(と私は感じる)ので、読者がどのようにでも解釈できるようなところがあり、左川ちかの詩にフェミニズム的な意味を読み取ろうというようなことも可能で、そんなことも近年の彼女に対する再評価のチカラになっているのではなどと推測します。
しかし、この手の詩を「解釈」してしまうのはジグソーパズルを並べて、出来た!と思っているようなもので、実はこのジグソーパズルには裏にも全く違った絵が書かれてあり、表側の絵を揃えると裏側の絵は全然不揃いになってしまうのに気づいていないようなものではないか、と思ってしまいます。
残念なことに左川ちかは24歳という若さで病のために夭折してしまいました。 もし彼女が生きながらえていたらどのような詩人になっていったかは「最初の一篇より完成してゐた」だけに、その後の変化というのを想像するのが難しいです。
彼女と同時代に活躍した1930年代のモダニズム女性詩人たちのその後を辿ってみても、その詩人としての才能を伸びやかに育てていけたかどうかについては疑問です。
彼女たちがみな若い女性であったということもあるのか、戦後の消息というのが研究者の方たちは別として私たち一般の読者にはほとんど伝わっていません。
『マルスの薔薇 : ろまん・ぽえじい』の莊原照子は時局に反する言動があったとして、戦争末期に特高警察の監視下に置かれ、やがて消息不明となり、それから十数年後、詩誌『詩学』の1957年12月号に「莊原照子さんの思い出ー城田英子」という「追悼文」が載り、その記事の末尾には「戦前の『椎の木』同人として左川ちかなどとともに活躍した女性詩人。詩集『マルスの薔薇』(昭森社刊)。横浜に住んでいたが、敗戦と同時に仙台にのがれ、直後に病死」とあります。が、しかし彼女は死んではおらず、この「死亡通知」から十年後、詩人としての活動を再開しています。「詩壇の公器」を自負していた『詩学』でさえ、こんなまちがいをしてしまうほど手がかりがなかったわけです。
彼女らの中で世間的に最も成功したのは江間章子でしょうが、彼女の戦後の名声は現代詩人としてよりも唱歌『夏の思い出』の作詞者としてのものですーーーもちろん、それはそれで素晴らしいことなのですが。
『現代女流詩人集』(山雅房, 1940) で中村千尾は、
と彼女の信じるモダニズムの詩学への忠節を示しています。彼女は戦後も詩人としての活動を続け、『日付のない日記 』(思潮社, 1965)では、
というような、モダニズムの実験的な美学を現実に消化した詩を書いており、私は好ましく思いました。
ただ、不幸なことに戦後詩史において彼女たちがよりどころとしたモダニズムの理念が、詩に思想と批評性を持ち込んだ荒地派の詩人などによって「サロン趣味的、末梢感覚的なもの」などと言われて徹底的に糾弾され、抹殺されてしまったために、彼女たちの詩にも正当な評価が与えられず、顧みられることもなくなってしまったのではないかと私は思います。
そんな彼女たちに対する 不当な扱いを悔しがる人たちはもちろんたくさんいて、その事自体は結構なことなのですが、ただ、勢い余って彼女らと対照的に詩人として世に迎え入れられた永瀬清子のような詩人に文句をつける人もいるのです。
正直言って私にはそれは言いがかりとしか思えません。詩人といえば谷川俊太郎、というような世間の風潮に反発して谷川俊太郎の悪口を言う人がいるようなものです。
そういう人たちが言うのは永瀬が世に受け入れられたのは 社会(男性)が求めるような 女性の母性的な イメージを彼女が拒まなかったからだ、というわけです。
モダニズムの詩法というのはコトバとそれにまとわりつく既成の意味や関係性をいったん切り離してしまうことによって、自由になったコトバたちを新たな関係性の中に置こうとします。そこに作り出される新しいイメージは女性であることとか、社会の中での役割とかいう価値観から解放してくれるものです。
江間章子がモダニズム詩にはじめて触れたときのことを回想して、
と、モダニズムの詩を知ったことによる開放感を記しています。
1930年代の社会的に抑圧された存在であった女性詩人がモダニズムの美学を信奉したのもわかるような気がします。
そして中村千尾の言うような「純粹なものへの憧憬と美」に青春を捧げた女性たちに思い入れのある人たちから見れば、永瀬清子のような姿勢は世渡り上手のようにも不純なようにも見えるのかもしれません。
しかし、少し冷静になれば 分かることですが 、もし世渡り上手なのであれば そもそも詩人になろうなどという野心は抱かないことでしょう。 江間章子がテレビのインタビューに応えて、当時「詩を書くなんてことはよっぽど変わってる人間だと親戚および誰も周りおもいますからね。隠してこっそり書いていましたよ」と語っています。
永瀬清子は先輩詩人である深尾須磨子に女性が詩人として生きることの困難を訴えて言います。
ヴァージニア・ウルフが『自分ひとりの部屋』で「婦人はもし小説を書くとすれば、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない」と言っていることはよく知られていますが、永瀬清子にはおそらくそのどちらもなかったことでしょう。
私は若い頃から永瀬清子の詩を好んで読んできましたが、特に女性詩人であることを意識したことはありませんでした。彼女の積み重ねてきた詩業と高齢になってもなお衰えない創作意欲に驚嘆し、尊敬もしていましたが、それが上に引用したような犠牲をくぐりぬけて来た結果であることなどには思い及んでいませんでした。
永瀬清子が詩に取り組む態度は男女にかかわらず手本となります。
(筆者注釈ーーーこの詩の「どもり」という表現にひっかかる方がいるかもしれません。今日では「吃音」というべきかと。しかし「どもり」は決して差別用語ではない、むしろ積極的に使うべきだ、という議論もあるようです。もちろん永瀬清子には差別的意図などはなく、この詩が書かれた80年以上前の日本では普通に使われていたコトバでした)
自分の思うことをスラスラと筋道立ててコトバにできるような人は詩を書く必要はないのです。詩を書く人はみな簡単にはコトバにできないこと、自分のアタマの中には確かに存在しているけれど、それを月並みなコトバで表現しては自分がウソつきになってしまうようなとまどいに口をつぐんでしまうのです。
永瀬清子はそんな人たちを、いや、むしろそうであるからこそ、書きに書けよ、と励ますのです。
左川ちかなどはまさにこの詩で永瀬が言う「成りがたい彫心縷骨の一篇」を書くために命を削ったような人でしょうが、そんな天才だけに詩を書く理由があるわけではないと私は信じます。
幸いなことに世はインターネット社会です。左川ちかも山中富美子も莊原照子も容易に読むことができるようになりました。彼女たちの復権も今後進んでいくことでしょう。
詩の歴史の発掘と書き換えが進むと同時にこれからの詩の歴史の記述方法も変わっていくでしょう。
詩はネット上で書かれ、誰でもが読み、自分の意志で評価をつけ、素晴らしい作品は自ずと拡散していくものとなりました。なけなしのお金を捻出して名刺代わりに一冊詩集を作る、などということも意味のないことになるでしょう。
普段着のごとく、流れるごとく、詩を書き語ることのできる、そんな時代に生きられることを私はたいへん幸福に思うのです。
(文中の引用書籍はすべて「国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書」で読むことが出来ます)
『天の手袋』北園克衛 著 (春秋書房, 1933) 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書 「若き女性詩人の場合」https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242287/83
「左川ちかと(室樂)」https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242287/59
『左川ちか詩集』(昭森社, 1936) 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1901761
『マルスの薔薇 : ろまん・ぽえじい』 荘原照子著 (昭森社, 1936)国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257837
『詩学』(詩学社, 1957-12) 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 雑誌
「莊原照子さんの思い出ー城田英子」https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/6065154/9
『現代女流詩人集』(山雅房、永田助太郎・山田岩三郎 編、1940) 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
「純粹な貝殼」中村千尾 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1114022/147
『日付のない日記 : 中村千尾詩集』 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
中村千尾 著 (思潮社, 1965) https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1361968
『詩へのいざない : 現代詩の理解と作法』江間章子 著 (柴田書店,、1957) 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1336344
『日本未来派. (31)』(日本未来派, 1950-01) 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 雑誌
「深尾須磨子氏へ--詩人への手紙」永瀬清子 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7919039/22
『女性と文学ー自分一人の部屋』 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
ヴァーヂニア・ウルフ 著(青木書店, 1940)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1689622
『女詩人の手帖 : 永瀬清子随筆集』(日本文教出版, 1952) 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
「性」「抵抗」 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1668002/20
『諸国の天女 : 詩集』永瀬清子著 (河出書房, 1940)国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
「論理のどもり」 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1685840/60
「流れるごとく書けよ」 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1685840/56