見出し画像

無知とは知ろうとしない努力である

前回は犠牲と成長のシステムによって被害と加害の間の葛藤は長きにわたってお付き合いしていく感情ではないか?というところまで記載しました。

今回は誰もが語りづらいがために問題の解決が先送り・他人任せになるという点まで記載して終わろうと考えています。

前向きな忘却

戦後哲学史では(主にハンナアーレント)忘却ということに対して多くの蓄積があります。それは主にナチスへの反省を継承し二度とあのような事件は起こさないという西洋の決意からだと理解しています。それだけナチスの犯罪というのは人道的に、歴史的に記憶・記録されなくてはいけない問題として哲学者が色々な考えを積み重ねました。

ハンナアーレントは忘却とは二度にわたる殺人であるとして、被害者の歴史が抹消され、歴史から被害者がいなくなることへの警戒心を語り、デリダは沈黙とは暴力であるということで過去から継承した問題群に対して、沈黙することは彼ら・彼女らの歴史を消し去ってしまう暴力であるのだから、解釈がたとえ間違ってしまったとしても自分なりの言葉で歴史に応答することの重要性を主張しました。ここでは当事者であろうがなかろうが重大な犯罪に対して社会が記憶し続けることへのこだわりが感じ取れます。

しかし、このナチスの事例と現代の事例は異なる点があるのではないかと考えています。それは被害者と加害者が事故後にも共存しなくてはいけないということです。

ナチスの事例では被害者であるユダヤ人はもちろん、加害者であったナチスの幹部たちも亡くなっていき、犯罪の当事者がいなくなった状態、もしくはユダヤ人は散り散りになっているのでナチスの残党との棲み分けが完全に行われた中で記憶をどうやって風化させないかに重点が置かれました。つまり問題について語り得る当事者不在を前提にして当事者以外が語り継ぐことの重要性です。その意味でハンナアーレントのアイヒマン研究は大切な功績ですし、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所が記憶の保存の役割を果たしていることも重要です。しかし、ジェノサイドではない現代の悪においては被害者と加害者(当事者たち)が共存していかなくてはいけないケースも考えなくてはいけません。例えば、原発事故の被災者が避難先で原発によって恩恵を受けていた人間と近所で暮らさなくてはいけない、などのケースです。ポジティブな関係を作ろうと思えば「お前らがあの時、、」のような感情はグッと堪えなくてはいけません。(本当はもっと良い例えがあるのですがセンシティブなので控えます)

つまり、加害者と被害者の立場が曖昧なまま新しい関係性を築いていく必要がある時、ポジティブに関係を作ろうと思えば原発事故への沈黙・忘却が必要になります。原発事故への言及は全くしないか、当たり障りのない程度にとどめておくことが手っ取り早くなります。このようにあえて沈黙・忘却することが前向きに生きていくために戦略として正しくなることもあるのではないでしょうか。

他人任せと先送り

ウェーバーだったかハイデガーだったかど忘れしましたが科学について、その使用に関する知識を専門家に蓄積する代わりに一般人は使用に関する知識を全く知らなくても良い、ということを言っています。つまり、電車がどうやって動くのかについて一般人は全く知らなくても大丈夫で、専門家さえわかっていれば大丈夫だ、ということです。むしろ電車を動かすための知識を獲得しないと電車を使ってはいけないのであれば、乗車のためのコストが大きすぎるので電車は普及しないはずです。科学技術は一般人の無知を前提にして普及していると言えます。

なぜこの話を書いたかというと現代では豊かな生活を送るためには積極的に無知になること、問題について忘却することが戦略として正しくなっていると感じるからです。これについてはフロイトも無知とは怠惰ではなく、知りたくないという努力だ、ということを言っています。つまり、厄介な問題を考え続けるくらいであれば、他者か未来に丸投げした方が快適に生きられるのです。しかし同時に他者や未来に丸投げするので、犠牲と成長のシステムに関する問題解決の可能性には期待できないということです。

ここまでまとめると、犠牲と成長のシステムの下では被害者なのか、加害者なのかわからないという葛藤や語りづらいという感情が生まれる。そんな状況でも他者との関係性を前向きに作っていくためには問題解決は諦めて、積極的に被害だとか、加害だとかの葛藤は忘却した方が気楽に生きられる、ということです。

(続く)


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?