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本音は失敗に先立たれる


人前で本音を話すべきなのか、嘘でよかったのか、いまだによくわからない。

この問いの歴史を遡るとソクラテスとプラトンに辿り着くのかもしれない。
書き言葉(書籍)にすると誰にいつ誤解されるかわからないから書籍を残さなかったソクラテスに対して、プラトンは誤解されることも含めて新しい可能性が生まれるから沈黙を貫いたソクラテスの言葉を書籍に残すという選択をした。未来の読者に「沈黙」したソクラテスと積極的に「応答」したプラトンという対比が面白い。

きっとソクラテスに本音を話すべきか嘘を言うべきか聞いたら「嘘をつくくらいなら黙ってろ」と言われる気がする。

でもなんとなくプラトンの方が好ましい気がする。だって人間は真実を話したって、嘘を話したって他者にそのまま言葉が伝わるわけじゃない。
本音を話すか、嘘を話すか、話し手の事情があるように、受け取り手だってメッセージをそのまま受け取るか、異なる解釈で受け取るのかわからない。

実存主義で「投げ込み」「投企」という言葉と同じようにコミュニケーションもまた、理解されるかわからない暗闇の中に言葉を「えいやっ」と投げ込む賭けなのである。

そう考えたら、どうせ誤解されるかもしれないなら敢えて嘘をつくというコミュニケーションもあるはずだ。
例えば、「好きか?」と問われて「好き」よりも「好きじゃない」
という回答の方が好意を表す最大表現になる場合もある気がする。   (僕は経験ないけど、、、)

重要なことはコミュニケーションは相互で作り上げるということなので、本音を話しても相手が本音として受け取るかはわからないし、嘘をついたのになぜか自分の本音を受け取ってくれることだってある。
結局は相手がどのように解釈するのかわからないので、
ポジティブに受け取ってくれる可能性に懸けて言葉を投げ込むしかない

それで成功すればいい、でも言葉を投げ込んだ結果、失敗することもある。
そんな時こそ本音の出番が来る。
言葉の意図や前提条件、いわば本音を丁寧に説明することで失敗したメカニズムを明らかにしないといけない。

※責任は英語で「Responsibility=応答可能性」であるが、同時に「Accountability=説明責任」でもある。

人にはその場を凌ぎたくて嘘をつくこともある。
それ自体よくあることなので批判対象にはしたくない。
でも、「批判しないこと」と「信頼できること」は異なる。
嘘をつかれたら許すし、嫌いになったりしないけど信頼関係は崩れる。
信頼関係を取り戻すためには説明責任を果たすしかない。
従って、嘘や建前自体は批判対象ではないが、信頼関係が壊れたときに本音で話さないことは批判対象になる。

本音とは間違ったものを修正するために使うツールなのかもしれない。
関係がうまくいっているうちは、語られている内容は嘘でも建前でもなんでもよくて、コミュニケーションが気持ちよく成立しているということだけに価値がある。しかし、時にコミュニケーションが失敗してしまうこともある。それを修復する武器として本音があるのだとすれば、本音なんて人生で使う機会がない方がいいのかもしれない。

本音は失敗に先立たれるのだから。

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