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被害の上に利益を最大化する犠牲と成長のシステム

前回まで何か問題があった時に自分も被害者でもあるし、加害者でもあるような気がしてしまうこと、そしてその葛藤は今後ずっと付き合ってはいかなくてはいけないものなのでは?という問題提起まで行いました。

今回は「今後もずっと付き合っていく」という性質を中心に書きます。

犠牲のシステム

ここで補助線として高橋哲哉さんの「犠牲のシステム福島・沖縄」という本の内容を少し記載します。
この本では福島の原発や沖縄の米軍基地というものは総じて犠牲のシステムだと述べられています。
本土や関東圏の利益のためにそれ以外の人間にリスクを負ってもらうことで日本全体としては経済成長できるという非常に功利主義的なシステムです。

1つ指摘したいのは、単に「犠牲のシステム」だとなぜ犠牲のシステムが容易に受け入れられてしまうのか?を見逃してしまうので、「犠牲と成長のシステム」とここでは記載します。
つまり、成長が見込める分野の人間にはとことん成長を目指してもらって、そうでないところは裏方に徹することで成長の恩恵を補助金や助成金の形で再分配してもらえるような仕組みなので、実際に問題が起きずに経済成長できているときは(経済の面では)優れたシステムであるがゆえに受容されてしまうというところまで踏み込みたいと思います。

このシステムは福島や沖縄に限らず日常の至る場所で散見されます。伝統的な家父長制や正規雇用と非正規雇用などがその例です。
人間が他者と代替可能な商品になるという資本主義の前提を考慮すれば、商品としての価格が高いところから低いところまでロングテールになることは明らかで、当然商品としての価格が高い人間にはそれ相応の仕事を分配しなくては全体最適にはなりません。
したがって、経済成長を目指す国では誰かの犠牲の下で誰かが全力疾走できるシステムが必要になるはずです。
そしてこのシステムは暗黙の了解でみんなが一緒に作ってしまっている気がするのです。

犠牲を受け入れる側もそれで成長のおこぼれが貰えるなら、、と。
成長を目指す側も自分が成長を目指しやすい環境をどんどん整えて、ノイズが入り込まない仕組みを作ってしまっています。

障害学との接点

脱線してしまいますが、個人的に障害学というものに最近取り組んでいまして、その中で障害の「医療化」という言葉があります。
これは障害を抱える人間を家族や地域の中で包摂するのではなく、病院や施設で専門家によって面倒を見てもらうことです。
例えば、自閉症スペクトラム(ASD)と呼ばれる症状が2000年代に入ってから急激に増加してることが統計で明らかになっています。
これはASDになる人が2000年代に入って急激に増加したからではなく、ASDという名前が普及したことによって、親や知人がこれはASDなのではないか?と心配になり、病院に相談に行く件数が増えたことによって急激な増加が見られるのではないか、ということが述べられています。(詳しくは当事者研究――等身大の〈わたし〉の発見と回復 や 健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて、など参照)

ASDという名前が普及していなかった頃はコミュニケーションする本人たちの努力や配慮で全く問題になっていなかったにも関わらず、
社会の中で求められる振る舞いのクオリティが上がったことで「病気」として診断されてしまうというASDの例が犠牲と成長のシステムと通じているのではないかと思っています。
つまり、大多数の人間と同じ振る舞いができない人間を極力日常から退出してもらうことによって生活や仕事を滞りなく進めようとしているということです。
僕らが住みやすくなればなるほど、競争に勝とうとすればするほど、誰かが日常からいなくなっている気がするのです。

マジョリティが生活しやすい環境を作ろうとすればするほど犠牲になる人が日常から不可視化されるーー そうやって犠牲と成長のシステムをみんなで一緒に作っているのではないでしょうか。

そして、このシステムが日常に根付いていればいるほど何か問題が起こった時には、システムの一員である自分の立場について不明瞭になります。
システムをみんなで作っているのでシステムが崩壊すればシステムに乗っかっている自分にも被害は及びますし、システムの一員として加害者の側面もあるような気もします。
被害者でもあるし、加害者でもあることは犠牲と成長のシステムをみんなで一緒に作っている現代では、今後も長きにわたって付き合っていく感情になるのではないでしょうか。

そして、犠牲と成長のシステムが引き起こす問題については誰もが語りづらいがために問題の解決が先送り・他人任せになるという点まで次回踏み込みます。

(続く)


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