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【小説】小指の神様-⑥Tasting GOVIDA

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第六話

 午後からは雨だった。たぶん今も降っている。水音にかき消されて、ここからは聞こえないけど。


 かけるのマンションは、三田駅から徒歩五分のところにあった。

 この場所を選んだ理由を訊ねると「近所の芝公園にテニスコートがあるから」と傘を持つ反対の手で素振りの真似をした。

 雨が響くせいか、あまり話さずに私たちは歩く。

 十八階の2LDKの部屋には、前に聞いた藤田嗣治の版画が二枚、『白い猫』のリトグラフが玄関に、『猫を抱いた少女』のシルクスクリーンが居間にあった。

 少女の乳白色の肌は、私の肌膚きふとよく似ている。

 「父が遺した絵だ」と駆は言う。彼が大学生のころ、出張先で倒れて突然亡くなったと聞いた。

 それから二人でコーヒーを飲んで、少し話した。


 そして今、寝室にあるシャワールームで、私は躊躇とまどいを洗い流している。

 自分すら上手く受け入れられないのに、他人を受け入れることができるのだろうかと、半ば怖気づきながら。

 手首から続く不思議なほど白く透き通った肌には、どこまでも現実味がなかった。魂すら籠っていない気がした。

 その代わりに、小指と神様が居てくれるのかもしれないけど…

 暖かい水に吐息が溶け始めるころ、駆が浴室に入ってくる。そして後ろからそっと私を抱き寄せた。

 水が、高いところから低いところへと移ろうように、彼の体温が、少しずつ流れ込んでくるのを感じる。

 静かに、目を閉じる。

 そうして駆の指先が、途切れがちに、私の耳元から首筋を撫ぜて、背に沿って伝い、微かな痙攣に似た痺れが広がると、やがて、立っているのすら苦しくなって、私は彼にすべてを委ねた。


 淡い微睡まどろみから放たれて、壁時計まで目を追うと時刻は十七時十分だった。

 腰に掛けられた駆の右腕を外し、ベッドから抜け出す。レースのスリップと下着を身につけ、キッチンへと忍び込む。

 冷蔵庫にはビールが数本と、ミネラルウォーター。あとGODIVAのボックスチョコレートも。

Pierre Marcolini
じゃないんだ
残念そうに小指は言う

 「これも美味しいわよ」と独りごち、戦利品を手に居間のソファに横たわり、置いてあったブランケットにくるまった。

 軽い視線を感じて見やると、藤田の猫が此方こっちを見ている。

 少女の方は何処どこも見ていないようで何処かを凝視していた。その視線の不明瞭さが、逆に視線を深めている。

 何処を見てよいかわからなくなり、誤魔化すようにチョコレートを開封した。少し迷ってから色味に惹かれてピスタチオを手にする。

 ふいに物音がして振り向くと、部屋着姿の駆が欠伸をしながら部屋に入ってくる。私の足を端にのけてソファに座り、ミネラルウォーターを口にした。

 爪先のペディキュアを見て「なんかの目印みたいだな」そう言って「青系、ターコイスブルーとかの方が似合いそうな気がする」と付け足す。

 その口調には、変えた方がいいとまでは言わなくても、変えて欲しいというニュアンスがあった。そうするつもりはないけど「そうね」と答えておく。

 一度、肌を重ねただけで、自分好みの色にしたいいう我儘。私は軽い苛立ちと所有される心地よさの狭間から手を延ばし、洋梨のフレーバーを摘まんだ。

 それは三層を成していた。

 一番外側のコーティングはダークチョコレートで、駆が仕事中に使う「私」という代名詞に似ている。どっしり重厚な。

 フィリングの梨とアーモンドのガナッシュは、その甘さとくが普段の「僕」と「俺」っぽい。

 そして核でありアクセントになるキャラメリゼされたクラッシュアーモンドは、明らかに「俺様」の味。

 私は、その多義性を羨ましく思った。私には「私」しかないし、小指や神様が大きな顔をしだすと、「私」にすらなれないときがある。

 物申したそうに神様が此方こっちを見たけれど、駆が覆いかぶさるように近づいてきたから、思わせぶりな顔をして消えていった。

 彼は薄い唇で私の口を塞ぐと、その舌で混ざり合ったチョコレートを絡め取っていく。

 さっきとは違って、そんなことも、これからすることも大したことじゃないように思えた。

 私を戸惑わせるのは、壁際に佇むあどけない少女から見られていること、それだけだった。

第五話           第七話

-Thank you for reading-


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