【小説】小指の神様-③Game-like betting
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三年後、私は上京した。引っ越しの日はちょうど二十八歳の誕生日だった。
地元を離れた原因は、梢さんの匂いがする土地に居るのが苦しかったのと、母との不仲。
梢さんと母と私の関係は三角形を描いていて、互いの関心や注意や不満が程よく分散されていた。けれども、そこから梢さんが外れることで、母と私は直線上に向かい合うようになり、自ずと諍が増えた。
直線が刺し違えを避けるには距離を求めるしかない。それには新幹線で二時間以上の隔たりが必要だった。
そうして新しい住まいと仕事を手にして四年、私の生活は表面上、落ち着いて見える。
ただこうしてペディキュアを塗っているとき以外にも、ふとした拍子に過去の影が差すことがあった。例えば、時間が余るとき。その余白に、梢さんとの思い出が色を付けにやってくる。
だからなるべく週末は予定を入れた。本を一冊、買いに行くだけの用事でも、わざわざ地下鉄に乗って都心に出向いたり、と。
暦上の季節と気温がすれ違う地下街を泳ぎ、丸善へと抜ける。日曜日の店内は思ったよりも空いていた。気ままに書籍の海原を巡回して、一冊しか買わないつもりが結局、決めかねて二冊の本を手にレジに並ぶ。
同時に並ぼうとした人と譲り合いになり、先に通して貰って会計を済ませたあと、その男性から声を掛けられた。
長谷川さん、ですよね
朧な覚えはあったけど、定かではない。記憶から延びる撚糸を辿ると会議室の片隅にどことなく似た人を見る。
― ああ、監査部の...
それは何度か事務的に話したことがある他部署の人だった。名前は知らない。たぶん会計士だろう。
彼はティップラインが遇われたFRED PERRYの黒いポロシャツに、オリーブ色のハーフパンツとOnitsuka TigerのMexico 66を合わせていた。普段のスーツ姿とは随分と印象が違う。
立ち話からの流れで三階にあるカフェに入る。東京駅を臨む大きな窓越しに並んで座り、私はレモンのシフォンケーキとアイスティを、彼はアイスコーヒーを注文した。
彼は小野 駆といった。予想どおり会計士で、シャープな顔の輪郭と鋭い目つきに神経質な険しさを漂わせている。ただ、ほどよく日に焼けた肌と長身がそれを打ち消すような伸びやかさを彼に与えていた。
どういった本を買ったのか聞かれて、私は鞄からカズオ・イシグロの『クララとお日さま』と藤田嗣治の画集を取り出す。
ああ、この人の
『私を離さないで』は読んだかな
どうでした?
いやほら、臓器提供者とか
設定が重すぎて途中で投げ出した
一瞥して意見を求められたので「うーん、わかるけど。重さっていうか、痛みかな。そこから目を離せなくなって一息で読んだ」そう私が返すと「痛いのに、わざわざ読むってのがわかんないな」と苦笑していた。
その物語は出口のない部屋のようだった。読んでいるうちに、部屋の空気が徐々に抜かれて窒息していくような寂寥感に包まれる。
そこはクローンである提供者たちに用意された部屋なのだろうけど、まるで自分も、オリジナルであるはずの私も閉じ込められて、彼らと同時に自分の運命から目を背けることができないように頁を捲る手が止められなかった。
そんな感性に欠けるとしたら、きっと彼は哀しみとは親和性が低いタイプなのだろう。どちらかというと理知的な。
その証拠に、見せてもらった小野さんの本は専ら会計関連の専門書だった。ぱらぱらと目を通したもののさっぱりで「これこそ、わからないわ」と私は首を振って笑った。
生気のない山手線が東京駅に滑り込む。その様子をガラス越しに見やる私を見つめる視線を横顔で感じた。私というよりは私の肌を見ているのかもしれない。
梢さんから母を経由して受け継いだ肌。男の人はたまにそうやって私を見る、近くにいるのに遠くの景色を眺めるように。
それから社内の共通の知人や仕事について話し、切りがよいところで切り上げると、連絡先を交換して書店の入り口で別れた。
地下に降りる階段を下る私の足元には、さっきのシフォンケーキに似た爽やかな軽さがある。淡々と、白いマキシスカートの裾が揺れたとき、頭を擡げたのは、彼と付き合うかもしれないという予感だった。
その直感に近い予感の滑らかさは、口の中で蕩けるチョコレートに似ている。食べ始めると連日食べてしまいそうで普段は避けているはずのお菓子。
私は小指の神様と賭けをする。
― もし
そうなったら
PIERRE MARCOLINI
そうならなかったら
ALAIN DUCASSE
それは一人暮らしを始めてから覚えた自分を甘やかす遊びだった。そうなってもならなくても、どちらに転んでも美味しい思いをする欺瞞が、私を甘やかす他人のいない東京では、どうしても必要だった。
くすり
その小聡明さに応えるように、神様が小さく嗤った。